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2016年2月27日 (土)

本当の愛は、キリストの犠牲的な愛

2016.2.27.  (土)本当の愛は、キリストの犠牲的な愛  heart

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 クリスチャンになって間もない頃、長野県のバイブル・キャンプに参加しました。説教者は東京から来られたAH牧師で、ギリシャ語、ヘブライ語が堪能な、ハワイ出身の日系3世の宣教師でした。彼は、新約聖書からは1コリント13章、旧約聖書からはイザヤ書2章から説教されました。イザヤ2章からの彼の説教は、今も私の耳に鮮明に残っています。「2:22鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか。」人間を信じて、頼り切ってはいけない。100%信頼できるのは、全知全能な神様だけだという趣旨だったと思います。

   私は、その頃、救われたばかりだったので、旧約聖書のことも、ユダヤのことも全く知識はなかった。しかし、いずれは死んでしまう人間を全面的に頼ってはいけないという警告は今も、私は助けられています。1コリント13章に関しては、愛の代わりにキリストと入れたらその意味が良く理解されると語られました。この愛を完全に実行されたのは、100%神であり、100%人間であられたキリストだけでした。クリスチャンになる前、高校時代にギデオンから頂いた対訳の新約聖書で1コリント13章を英語で学びました。その時は意味は全く理解できなかったけれども、英語が上達したいためだけの暗記でした。

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   2月7日(日)には、日系3世のJ兄弟が、1コリント13章から説教してくださいました。J兄は、カリフォルニア出身ですが、両親がハワイへ宣教師だったので、ハワイで育ち、両親の働きをおおいに助けてこられました。そのため、ベテルの働きにも理解を示し、私たちを助けてくださっている忠実なクリスチャンです。J兄は、米国の神学校で4年間牧師コースを学び卒業されました。 私は、彼の説教をいつも楽しみにしています。3月からは月1回、木曜日の祈り会でも聖書を教えてくださいます。アーメン! J兄も、2月7日の礼拝で、愛の代わりにキリストを入れたら、この箇所がとてもよく理解できると説教されました。それを聞きながら45年前に、AH牧師が語ったみ言葉がよみがえってきました。以下に1コリント13章を引用します。是非、読んで、じっくりと黙想していただきたいです。



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1コリント13章13:1-13節

13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。

13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、

13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。

13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

13:8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。

13:9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。

13:10 完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。

13:11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。

13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

(o^-^o)

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