« 本当の愛は、キリストの犠牲的な愛 | トップページ | イースターピクニックのお知らせ »

2016年3月 5日 (土)

キリストの犠牲的な愛

2016.3.5.(土) キリストの犠牲的な愛 (*^-^)

1ヨハネ3:16

 「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」


1コリント13:12-13

 「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔3 とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と*愛です。その中で一番すぐれているのは*愛です。」(*愛=キリストと置き換えることも可能)


エイミー・カーマイケル「カルバリの愛を知っていますか」より抜粋



Godthegiver3638_2


「イエス・キリストの愛のとうとうさは、愛されている者のほかは知ることができない。」


   わたしたちのまわりの人々の愛が、夏の海のようにわたしたちを浸7fc8fd し、ゆったり安らわせてくれる時がある。事実仲間の愛の素晴らしさに、わたしは感嘆の声をあげて、止むことがない。そして突然気がつく。その人々の中に、主がおられると。わたしの上に惜しみなく注がれるのは、主の愛にほかならない。おお、あなたの愛する者の中に示される神の愛よ。わたしたちはあなただけを礼拝します。(写真右、インド南部の海岸)

   ある時に、晴れ渡る空を見上げるように、神の愛を見ることが許されることもある。だが、しかし、結局のところ、なんとわずかしかわたしたちには見ることができないのだろう。



2691401

   「あなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」

   これらのことばをわたしたちは充分にとらえることができない。そもそもわたしたちは何を理解しているのか、何を知っていると言えるのか。栄光輝く愛、十字架に示された愛の前で、わたしたちはあわてふためき、うなだれて、岩なるキリストの陰にかくれ、塵の中にただ伏すことしかできないではないか。そしてその時、ひとつの問いがわたしたちの心を刺し通す。カルバリの愛の何を、わたしは知っているのか。

エイミー・カーマイケル(1868-1951)北アイルランドに生まれる。インド南部へのプロテスタImagegen_2 ント宣教師。1893年ー1894年の15か月間、日本に滞在したが、健康を害し帰国。その後、1895年インド南部に渡り、宣教師として奉仕をした。その後55年間、天に召されるまで、インドのために自分をささげた。1901年より、ヒンズー教寺院に奴隷として売られる少女たちの救済に乗り出し、救済院(ドナバー・フェローシップ)を設立。この働き以外にも看護師、教師、伝道者を育成する学校の設立にも参加した。多くの少女たちをキリストへの信仰に導いた。



20111101222951ea2




|

« 本当の愛は、キリストの犠牲的な愛 | トップページ | イースターピクニックのお知らせ »

ニュース」カテゴリの記事