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2016年4月

2016年4月29日 (金)

春のリトリート(佐野市)

2016.4.29(金)春のリトリート(佐野市)

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 来月(5月)3日~4日の連休に、佐野市のキャンプ場で、春のリトリートが開催されます。今年は、参加者は少ないですが、交わりの密なキャンプとなるでしょう。埼玉県の入間市からI 牧師夫妻をお迎えして、旧約聖書から受肉前のキリストの尊い働きについて学びます。


   I 牧師は、北海道大学を卒業され、米国のBJU大学、大学院を卒業され、旧約Pastor1_2 聖書の研究で神学博士号を取得されました。奥様は、当神学校の誇れる卒業生です。お二人のみ言葉の準備をお祈り下さい。I ご夫妻は、とても謙遜な神様の働き人です。当教会は長年、お二人の働きを祈りと経済的なサポートをしています。

(*^m^)

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2016年4月23日 (土)

熊本地震

2016.4.23.(土)熊本地震

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 米国、A.B.W.E.の宣教師が多く働いている九州の熊本でとても大きな地震が、4月14日(木)午後9時26分頃に起きました。当教会では、祈り会が終わってしばらくたってからでした。夜であったので、被害の状況は、はっきりわかりませんでしたが、日がたつにつれて被害の大きさに愕然としました。

   熊本では、100年に一度という大きな地震でした。私たちの教会では、4月17日の礼拝で熊本の復旧のために祈りFampic15_2 ました。そして、何らかの形で貢献したいと願いました。鹿児島県には、私の神学校時代の親友であったP宣教師ご夫妻に電話をしてA.B.W.E.熊本にいる、S宣教師家族とその働きの状況を聞きました。近ければ、神学生と共にボランティアに行きたいところですが、それもかないません。

   S宣教師の家は、丘の麓にあり、昨日まで、地滑りの警告が出ていたので避難所にいました。彼らが、集会をしている建物の被害はとても大きいとのことでした。周りの方々の混乱ぶりを考えると心が痛みます。これほど長く、強い余震が続くのも今までになかったそうです。

   私の親友のP宣教師夫妻と友人は、4台のバンに救援物資をいっぱい詰めて助けに行ったそうです。私たちの教会でHilltop11 も、彼らの宣教の働きと建物の復旧のために捧げたい願っています。一人一人が何ができるか祈りつつ捧げましょう。

詩篇23篇

23:1 主は私の羊飼い。

私は、乏しいことがありません。

23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、

いこいの水のほとりに伴われます。

23:3 主は私のたましいを生き返らせ、

御名のために、私を義の道に導かれます。

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23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、

私はわざわいを恐れません。

あなたが私とともにおられますから。

あなたのむちとあなたの杖、

それが私の慰めです。

23:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、

私の頭に油をそそいでくださいます。

私の杯は、あふれています。

23:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと

恵みとが、私を追って来るでしょう。

私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

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2016年4月19日 (火)

嵐のときにも (4/4)

2016.4.19. 嵐のときにも(4/4)   ヽ(´▽`)/

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良いものをもたらす目的

手術を受けたことのある人は少なくないでしょう。 手術をするとなると、 予定の変更を余儀なくさせられ、 とにかく面倒です。 また、 痛く、不快で、恐ろしくもあります。 それでも私たちは、医師の指示に従います。 その理由は、 痛みには見返りがある、 良い結果になる、 という約束があるからです。 すべての痛みは神の目的を達成する過程だ、 と聖書が告げます。 また、 神の目的は、 必ず良いものをもたらすと保証しています。

「神を愛する人々、 すなわち、 神のご計画に従って召された 人々のためには、 神がすべてのことを働かせて益としてくださる ことを、 私たちは知っています。 なぜなら、 神は、 あらかじめ知っておられる人々を、 御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められ たからです。 それは、 御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです」 ( ローマ 8 : 28-29)。 このみことばは、 3 つの真 理を保証しています。 私たちは困難の中にあるとき、これらによって自らを防衛することができます。

知っていることに留まりましょう

困難に見舞われた人は、あらゆる感情に襲われます。 絶望感、 痛み、 復讐心、 自己憐憫、 怒り、 悲しみ、 その他にも色々ある でしょう。 注意していないと、 それらの感情に支配されて、 知性から引き離されていきます。理屈では分かっていても、感情によって思考が脱線し、信じて従うと決めたことからそれていきます。「感じている」 ことが、 「知っている」 ことをゆがめていきます。

辛いときに頼りにすべきは、 感情ではなく知識です。 ローマ人 への手紙 8 章 28 節には、「私たちは知っています」 とありますが、 それは文字どおり、 絶対不変の知識を持っている、 という意味で す。 痛みの中にいる私たちの知識は、 「たぶん」 とか 「であればいい」 ではなく 「疑いなく知っている」 という現実です。 感情が砂なら、 知識は岩です。

聖書の中で困難に関する個所はすべて、 私たちの知識に訴えかける内容です。 「そればかりではなく、 患難さえも喜んでいます。 それは、 患難が忍耐を生み出し、 忍耐が練られた品性を生み出し、 練られた品性が希望を生み出すと知っているからで す」 (ローマ5:3-4)。 すでに見たヤコブの手紙1章2~4節 にもありました。 「さまざまな試練に会うときは、 それをこの上もない喜びと思いなさい。 信仰が試されると忍耐が生じるということを、 あなたがたは知っているからです。 その忍耐を完全に働かせなさい。 そうすれば、 あなたがたは、 何一つ欠けたところのない、 成長を遂げた、 完全な者となります。」 私たちの見方が感情に支 配されてゆがんだとしても、 神の真理は変わりません。 私たちがどう感じたとしても、 真理は真理です。

神の真理は、 苦しい時に頼れる活力です。 私たちが知っている真理は何でしょう。 私たちは、 患難が品性を練ること (ローマ 5 : 3-5) を知っています。 また、 試練は有用な人間を作ること (ヤコブ 1 : 2-5) も知っています。 ローマ人への手紙 8 章 28 節から、 痛みの目的は最終的に良い結果を生むことだとも知っています。 これを知ること、 この事実にすがりつくことが大事です。 真理は困難の中にあっても、 安定を作り出してく れます。

友人が、 ひどいうつ状態に何ヶ月間も苦しめられました。 病状をどうすることもできなかったそうです。 その間、 彼女を支えたものはただひとつ、 「天国は現実だ」 という真理だったそうです。 この基本的な知識のおかげで、 彼女は、 絶望という感情の渦にのみ込まれずにすんだのです。 2 か月前に子どもを亡くしたばかりの別の友人は、 声を詰まらせながら言いました。 「今、 子ども が死んだ直後よりも苦しいのです。 私に分かっていることは、 神 さまは全知であり主権者だということだけです。」 これは初歩的な知識です。 けれども、 彼を十分に支えています。 私たちは神の民なので、 痛みの中にいても真理がある、 という強みがあります。 これは困難の中にあって、 紛れも無く有利な立場です。 真理にしがみつきましょう。

痛みはプロセスです

ローマ人への手紙 8 章 28 節は、 痛みはプロセスであること、 さらに、 最終的に良いものに至ることを教えてくれます。 痛みを 受け入れる基本原理は、 神にとって、 私たちは開発途上だという認識です。 神から見て完成された人はいません。 神は、 私たちをありのままで愛し、 受け入れてくださいますが、 神がご覧に なっているのは、 私たちの可能性であり未来像です。 私たちは、 楽しいと 「これで良い」 と自分に満足しますが、 痛むときは神に目を向けます。 神は痛みを用いて、 ご自分が望むように私たち を成長させられるのです。 このプロセスには、 3 つの側面があり ます。

すべてを含むプロセス

神は 「すべてのことを」 働かせてくださるのですから、 神の許されることは、痛みであれ楽しみであれ、悩みであれ祝福であれ、 すべてを、私たちを変えるために用いられます。 かっこいい車は、 魅力的です。 この車が、 美しさと有用性を持ち合わせるために は、一連のプロセスが必要です。 美しい車のデザインは、曲げる、 たたく、 型を作る、 熱する、 リベットで留める、 ヒューズを付ける、 締めるなどの過程 (プロセス) を経て出来上がります。 組み立 てラインの前進は、 認知できないほど微小なので、 そのプロセス はゆっくりです。 しかし、 目指すゴールは明らかです。 また、 プロセスは具体的です。 無数の部品が全体を成り立たせています。 不恰好で強い圧力を加えられるものがある一方で、 美しくされていくものもあります。 ひとつひとつは、 欠かすことのできないプロ セスなのです。

痛みがプロセスの一部であることは、 みことばの文脈から分かります (ローマ 8 : 18、 23、 26 節)。 痛み無しに変えて欲しいと願うのは、 まるで鋼鉄の固まりが、 組み立て工程を経ることなく 美しい車に変わるように願うようなものです。 ローマ人への手紙 8 章 28 節は 「神がすべてのことを働かせ」 と語ります。 これは、 現在も継続しているプロセスです。 私たち には神の目的があります。 神は、 目的を反故 (ほご) にしたり、 プロセスを中断したりされません。 私の家の物置には、 やりかけ て置きっ放しにされているものがあります。 修理しようと解体して放ってあるものや、 ニスを塗りかけてそのままのものなどです。 し かし、神は違います。途中で忘れたり放り出したりはなさいません。

 

神が監督するプロセス

ローマ人への手紙 8 章 28 節は 「神がすべてのことを働かせ」 と語ります。 私の人生の物語の背後には、 神の御手があります。 神の御手は動いています。 変化や制限を与えたり、 圧力をかけたり、 力を与えたり、 置き換えをしたりしています。 すべてのことを働かせて益としてくださっているのは、 神ご自身なのです。

1856 年、 彫刻家オーギュスト ・ バルトルディはフランスからエ ジプトに旅立ちました。 彼はピラミッドの壮大さや、 雄大なナイル 川の力強さ、 砂漠の中に堂々と立つスフィンクスの美しさに圧倒され、 芸術家として大きな刺激を受けました。 彼はこのとき、 ひ とりの旅人に会いました。 フェルディナンド ・ レセップスです。 レ セップスは、 紅海から地中海につながる運河を掘るという構想を、 有力者に理解してもらおうとしていました。 運河があれば、 商船はアフリカ大陸の南端まで巡る長旅をしなくてもよいからです。 バ ルトルディは、 レセップスのアイデアに魅せられ、 運河の入り口 に灯台を立てたいと思いました。 しかしそれは、 単なる灯台では ありません。 バルトルディの灯台は、 西欧文明の光が、 東洋をも照らすようになることを象徴する建造物でした。

スエズ運河の建設は 10 年の歳月を要しました。 その間、 バ ルトルディは灯台のデザインに取り組みました。 設計図を描き、 粘土模型をつくり、 何度も改良を重ねました。 そしてついに、 完璧なデザインが出来上がりました。 ところが、 問題がひとつありま した。 建設費です。 手を尽くして探しましたが、 出資者は現れませんでした。 こうして、 スエズ運河は開通しましたが、 灯台はできませんでした。 傷心のバルトルディはフランスに帰国しました。 10 年間の努力は水泡に帰したのです。

バルトルディの構想は、 素晴らしいものでした。 それは、 砂漠 のスフィンクスよりも高い巨大な彫像です。 ローブを身にまとった 婦人が、 正義の書物を片手に持ち、 もう一方の手で灯を高く掲げ、運河の入り口を照らすというものです。バルトルディは帰国後、 アメリカに贈る芸術作品のために力を貸して欲しいと、 フランス政府に依頼されました。 これが、 ニューヨーク港を照らす 「自由の女神」 の彫像となりました。 これは、 失望に終わった出来事が、 想像以上に良いことが起こる前ぶれにもなり得る、 という良い例 です。

困難、 敗北、 失意が、 意義ある偉大なことに続いてゆく可能 性がある、 というのが世の常だとするならば、 このプロセスを知恵 と力に満ちた神の御手に委ねるとき、 その結果はどれほど確かに保証されることでしょう。 しかし、 私たちは無責任な運命論に陥らないよう注意すべきです。 無責任な運命論とは、 すべての困難の原因が神にあるとする考え方です。 ローマ人への手紙 8 章 28 節の 「すべてのこと」 の中には、 人間の選択と選択の結果としての現実も含まれます。

イーデス ・ シェーファー著 「苦しみについて」 の中には、 崖から落ちて死んだ子どもや、 薄氷の張った池に落ちた子どもの話が出てきます。 その子どもを崖から落としたのは神でしょうか。 氷の割れ目から池に落としたのも神でしょうか。 そうではありませ ん。 私たちは堕落した世に生き、堕落した人類に属しているので、 これらの悲劇が起こるのです。 崖に近づいたのは人間の選択であり、 氷の安全性を確かめなかったのも人間の選択です。 その結果、 悲劇が起こりました。 けれども、 神の創造力に富んだ強い御手は、 これらすべてを働かせて益としてくださるのです。

人生はジグソーパズルに似ています。 私たちの人生は、 テー ブルの上に乗っている、いくつものパズルのピースです。 それは、 ごちゃごちゃしています。 方向性も論理性もなく、 悲劇的です。 しかし、 私たちは分かっています。 神が来てくださって、 みこころのときに、 みこころの方法で、 賢く注意深くピースをはめ込ん でくださいます。 そしてついに、 道理にかなった美しい作品が出来上がります。 「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、 キリスト ・ イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを 私は堅く信じているのです」 とパウロが語ったとおりです (ピリピ 1章6節)。

痛みは目的をもったプロセスです

3 番目の原則は、 神にとって目的のないプロセスはないということです。 ローマ人への手紙 8 章 28 節には、 神が私たちのた めにすべてのことを働かせて益 (英語では 「良いこと」) としてく ださるとあります。 これが神の目的です。 クリスチャンにとって、「良 い結果」 という目的のない痛みはありません。

あるとき教会で 「神さまが息子さんを守ってくださいましたね。 神は本当に良いお方です」と、ある夫婦に話しかけました。 前夜、 彼らの息子は交通事故に遭って、 緊急手術のできる遠くの病院に運ばれました。 一時は危篤状態でしたが、 一命を取り留めた のです。 しかし隣には、 数年前に娘を交通事故で失った夫婦が 立っていました。 私はハッとしました。 「神さまはこの人たちにとっ ても、良いお方なのではないのだろうか。 私はどういう定義で 『良 い』 という言葉を使っているのだろう。 娘さんを亡くされたご夫婦 は、 私の言葉を聞いてどう思ったのだろう?」

神はローマ人への手紙 8 章 29 節で、 「良いこと」 (日本語で は 「益」) を定義してくださいました。 ここでは、 神の目的のた めに召された人々のために、 ひとつのプロセスがあると言われて います。 では、 神の目的とは何でしょう。 それは 29 節によれば、 御子のかたちと同じ姿になることです。 これこそが「益」なのです。 キリストの品性をますますはっきり反映させるものが、 私たちの人 生の内に、 または、 人生を通してあるなら、 それが 「良いこと」 です。 痛みであれ喜びであれ、 その体験が、 私たちをキリストに似せていくなら、 それは 「良いこと」 です。 それが、 痛みのプ ロセスにおける神の目的です。 すべての出来事は、 神の許可があって起こりました。 神はこれらすべてを用いて、 キリストを反映させるものへと私たちを変えていかれます。

家族でセミナーに参加していたとき、 末息子のマシューが手首を骨折しました。 私はあのような手を見たことはありません。 腕が手首のところで左に鋭角に曲がり、 再び反対に曲がって手の ひらになっていました。 目を背けたくなる、 気持ちの悪い姿でした。 急いで病院に駆け込みました。 医者が息子の手を引っ張って、額に汗を浮かべながらねじりました。 息子の痛がる姿を見て、 私は医者につかみかかって、 息子から引き離してやりたいという 衝動にかられました。 しかし、 見守るしかありません。 マシュー の腕は本来のかたちに回復されなくてはなりません。そのために、 彼は数週間、 痛みと不便を忍ばねばなりませんでした。

私たちは、 罪によって傷つき壊れています。 神は良いお方で す。 神は愛です。 そんな神が、 私たちを回復させなければなりません。 当初のご計画のとおり、 御子のかたちに回復させるのです。 あわれみと義、 そして愛の心を回復させなければなりま せん。 元来のご計画のとおり、 ご自分の栄光をあらわすために、 神は、私たちを作り変えなければなりません。 神は、私たちを 「良いもの」 に変える計画をお持ちであるだけではありません。 その 計画を完成する力も持っておられます。

預言者イザヤは、 神は 「すべての悲しむ者を慰め、 シオンの悲しむ者たちに、 灰の代わりに頭の飾りを、 悲しみの代わりに喜びの油を、 憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためで ある。 彼らは、 義の樫の木、 栄光を現す主の植木と呼ばれよう」 と語りました (イザヤ 61 : 2-3)。 また、 神はいなごが食い尽くした年を償うことができます (ヨエル 2 : 25)。

ミケランジェロは、 石のかたまりから 「ダビデ像」 を彫り出しました。 キャンバスに絵の具で傑作を描いた画家たちがいます。 最近は、 鉄の棒を曲げて溶接した不思議なモニュメントも広場 に展示されているでしょう。 しかし私は、 灰から芸術作品を生み 出した人を見たことがありません。 それができるのは神だけです (イザヤ 61 : 3)。

神は人生にキリストの愛をくださいます。 そのために、 痛みの体験が必要なのかもしれません。 他の人のニーズに敏感になるために、 何らかの必要を覚える辛い日々を、 私たちは通されるのかもしれません。 それに伴って痛むというのなら、 それは 「良いこと」です。 私たちは泣く者とともに泣けるでしょうか。 キリストのように純粋に同情するようになるために、 私たちには涙を流す体験が必要なのかもしれません。 自分のことは自分でできると思っていませんか。 豊かな社会の悲劇は、 神が必要だとほとんど感じられないことです。 ところが実際、 私たちは、 どうしようもないほど神が必要なのです。 私たちの安定は、 多少は覆される かもしれません。 キリストのように神に頼って生きるようになるためにです。 とすれば、 たとえ痛みを伴ったとしても、 それは 「良いこと」 です。

私たちは、 神に忠実でしょうか。 悲劇が起こって衝撃を受けるかもしれません。 神が生きて働くお方であることを体験し、 キリス トのように神を信頼して歩むことを学ぶためです。 とすれば、 そ れは 「良いこと」 です。私たちは、 プライドが高く、 他人に無関心で、 性的好奇心が強く、 わがままで恨み深く、 否定的で怒りっぽくはないでしょうか。 神は、 御子イエスという模範を与え、 このお方のように生きなさいと語っておられます。

神は、 私たちの中に良い変化を起こすことができます。 何が最善であり、 そのために何が必要かをご存じです。 神は愛に溢れた力強い彫刻家です。 キリストの姿が見えるまで、 私たちのカチカチの部分を削り取ってくださいます。 神を知る人たちにとって、 痛みは、 ある目的のために通らねばならないプロセスです。 私たちは、 辛いときを何とかやり過ご していくのではありません。 麗しいキリストのように作り変えていた だくために、 困難の中を通らせていただきます。 そして、 それは 「良いこと」 です。 (RBC Ministries)  (* ̄ー ̄*)

Sarawakriver

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2016年4月18日 (月)

嵐のときにも (3/4)

2016.4.18.(月)嵐のときにも(3/4)

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信仰が試される

 信仰が困難によって試されます。 信仰とは何でしょう。 それは神にゆるぎない信頼を置くことです。 感謝なことに、神は、指の間からすり抜けてしまうような、つかみどころのないお方ではありません。 移動式標的のように、的の絞りにくい移り気なお方でもありません。 また、「かくれんぼ」をして遊んでいるかのように、じらしたりなさいません。神はご自身を明らかにされています。 神の約束、神の道、神の品性は明白に提示され、それらすべては不変であり、 確実な、 信頼できるものです。 試練に襲われ たときに、 しっかりとしがみつくことができるお方が、 神なのです。

 

信仰によって神の約束にしがみつく

 「わたしは決してあなたを離れず、 また、 あなたを捨てない」 (ヘブル 13:5)。 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、 神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、 私たちは知っています」 ( ローマ 8 : 28)。 「その忍耐を完全に働かせなさい。 そうすれば、 あなたがたは、 何 一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります」 (ヤ コブ 1 : 4)。 たとえトンネルの向こうに光が見えなくても、 暗闇がますます深くなって、 失意のどん底にうめいていても、 みことば の約束は真理であり、 安定の源です。

信仰によって神のなさることにしがみつく

 このようなとき、 私たちはこう祈ります。 「天の父よ。 私は聖書を読んで、 あなたが今まで何を成し、実在の人たちにどう対応されたかを知っています。 あなたは、聖書のとおりのお方ですから、 私はこの試練の期間、 あなたにしがみつきます。 私はいじけません。 自分の浅知恵を働かせようとしません。 どうぞ、 みこころのときに、あなたの御業をなしてください。」 そして、信仰によって、 神のなさることにしがみつきます

信仰によって神のご性質にしがみつく

 コリント人への手紙第一 10 章 13 節には 「神は真実です」と 記されています。 私たちは信仰によって 「神は真実である」 という事実にしがみつきます。 神は事態が収束しそうな頃に現れて 「いや、 すまなかったね。 この3週間ほどバタバタしていて手が放せなかったんだ」 などと言うお方ではありません。 神のご性質 は、 心変わりがなく誠実で、 頼りがいがあります。 全幅の信頼に値します。 神は、慈しみ深いお方です。 正義そのもので(だから、 敵のことも委ねることができます)、 正しく、 恵みとあわれみに富んでおられます。 試練によって信仰は試されます。 それはまるで、 裁判所の証人台に立たされて、 神の約束、 神の御業、 神の性質を、 人生のどんな場面でも例外なく、 妥協なく、 全幅の信頼 を置いて対応することを実証してごらんなさい、 と迫られているか のようです。 煮え切らない態度ならば、 信仰の弱さを暴露したことになります。

忍耐が試される

 困難に対して 「信仰的な応答」 をするや否や、 忍耐が試され ます。 神に粘り強くしがみつくなら、 私たちは音を上げたり、 投げ出したりしません。 興味深いことに、 「忍耐」を表す英単語 「Endurance」 は、 「ヒュポ」 と 「メノー」 というふたつのギリシャ語からできています。 「ヒュポ」 は 「下」 であり、 「メノー」 は 「とどまる」 という意味です。 つまり、 忍耐とは、 神の働きが完了するまで緊張状態の下にとどまる力のことです。 私の家族はスイカ が好きです。 子どもたちは、 濡れたスイカの種を親指で上から少し押さえると、 テーブルの向こうまで飛んでいくことを発見しまし た。 そして、 お互いに種を命中させて遊んでいました。私たちの多くは、 この種のように試練に応じます。 問題がのしかかってくると 「神さま、ここから出して!今すぐ!」 と言います。 しかし、 神が 「ノー」 と言われたなら、 逃げようとはせず、 その にとどまり耐え抜きましょう。 信仰が忍耐を生み出すのですか ら、 信仰によって神のご臨在を主張しましょう。 人生に豊かな実 が結ばれるためには、 問題から逃げずに前向きであることが大 切なのです。

 試練のときは、 神に関する真理を具体的にリストアップして、 その根拠となる聖書個所を書き出すことが助けになります。 これ らの聖書個所を覚えたり、 そのみことばを祈ったりすると、 みこと ばの真理があなたの意識の中に深く刻まれます。 忍耐の本質は、 神に従い、 神を信頼し、 みことばの真理が自らの上に成就されるまで待つと誓って、 ぶれないことです。 恵みと成長と神の栄光を期待して待ち、 信仰に少しでも前進の兆しがあるなら、 喜びましょう。 自分の決意を定期的にチェックしましょう。 自分や自分の やり方に頼り始めていませんか。 自分で状況や人を操ろうとした り、怒ったり、恨んだり、人に辛くあたったり、赦せない気持ちになっ たりしていませんか。 それとも、 信仰によって神にしがみついて、 聖書が教えるように応答していますか。

服従が試される

 主にあって信仰を働かせ、 忍耐を働かせたなら、 次は服従を働かせることです。 「さまざまな試練に会うときは、 それをこの上 もない喜びと思いなさい。 信仰がためされると忍耐が生じるということを、 あなたがたは知っているからです。 その忍耐を完全に働 かせなさい。 そうすれば、 あなたがたは、 何一つ欠けたところの ない、 成長を遂げた、 完全な者となります」 (ヤコブ 1 : 2-4)。このみことばにある唯一の命令が 「忍耐を完全に働かせなさい」 です。 これは、 手術をするときと同じです。 外科医に手術が必要ですと言われたら、 「分かりました。 痛いでしょうけれど、 我慢します」 と言うでしょう。 私たちは医者を信頼し、 手術は最終的には自分の益になると信じます。 次のような場面を想像して みましょう。 あなたは手術室に運ばれ、 スタッフが準備をします。 外科医が入って来て、 鋭いメスの置かれたトレイのそばを通り過 ぎました。 看護師が医師の手に手袋をはめ、 メスの乗ったトレイを手元の台に運びます。 その時点で、 あなたは 「やっぱり、 やめた」 とつぶやき手術台から飛び降ります。 すると医者はメスを つかんで、 あなたを追い回し、 手術しようとします。

 こんなことは起きるはずはありません。 しかし、 神が人生の苦 難を通して私たちを成長させようとされるとき、 私たちはこれと似たことをして、 神をてこずらせるのです。 ですから、 ヤコブの手 紙 1 章 4 節は、 神のされるままにしていただきなさいと命じます。 私たちは、 手術台から飛び降りたい衝動をぐっと抑えて、 外科医である神を信頼し、 忍耐しなくてはなりません。 結果的には、 喜びと賛美をささげることになる、 と知っているのですから。

祈りに頼る

 そしてヤコブは 「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、 ...神に願いなさい」 (ヤコブ 1:5) と語り、 祈りなさいと勧めます。何をすべきか、 どう応答すべきかが分からないときは少なくありません。 そのときは、 御父のもとに行って知恵を求めましょう。 苦しみが深すぎて祈れないとか、 どう祈ったら良いか分からないとき もあります。 そのときは、 ローマ人への手紙 8 章 28 節を思い出 しましょう。 このみことばは、 聖霊が言葉では言い表せない思いやうめきを御父の前に持ち運び、 みこころに従って私たちのためにとりなしてくれると語ります。 苦難の中で祈るとき、 私たちは神 を見上げます。 問題に焦点を当てるのではなく、 神に焦点を当 てます。 全能のお方、 あわれみ深いお方、 正義のお方を見つ めるのです。

   祈りは、 私たち自身の姿も明らかにします。 困難の中で 「主よ。 山本さんと鈴木さんの問題をご存じでしょう。 彼らは...」 と祈り出すと、主が私たちをさえぎって 「彼らのことは分かっているよ。 でもまず、 お前のことを話そう」 と言われます。 祈りは、 「何一つ 欠けたところのない、 成長を遂げた、 完全な者」 (ヤコブ 1 : 4) となるために、 向き合うべき自分の課題を明らかにします。 神は いつも、「彼らのことは、 私に任せておきなさい。 さあ、 お前のことを話そう」 とおっしゃいます。祈っていると、 聖書の教えが心に浮かぶことがよくあります。 聖書のみことばと、 それをどのように適用すべきかが示されます。 これは神の知恵です。 神について、 私について、 神のみことば についての知恵です。 「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、 ...神に願いなさい」 (ヤコブ 1 : 5)。 困難を乗り越える 簡単な方法はありません。 しかし、 正しい方法はあります。 それ は、 困難を喜びにすることです。 信仰を働かせ、 服従を働かせ、 知恵を求めて祈ることが正しいと知って困難を受け止め、 喜びに するのです。困難は神の目的に到達する道だ、 という信仰を持つためには、 自分自身の人生の目的が、 神の目的と一致していなければなりません。

   もし、 あなたの人生の目的が、 快適に暮らし、 みんなに好かれ、 幸せで、 貯金もあり、 欲しいものが買えることなら、 困難に希望を見いだすことはないでしょう。 あなたの存在目的は、 こんなものではありません。 神にとって最も大切なことは、 あなたの人格です。 金銭や利便性、 快適さではありません。 他人の幸福や永遠の価値のために、 あなたはどれほど貢献できるでしょう か。 その実力が、 神にとっての関心事です。 単に幸せに過ごす ことではありません。 私たちの試練の価値は、 私たちが困難の前と比べてイエス ・ キリストに似たものに変えられてきたかどうか です。 私たちの痛みは、 私たちを神の目的に至らせます。 神は 私たちの悲しみを無駄にはされません。

   苦しい状況に陥ったとき、 頭の中を様々な疑問が駆け巡りますが、 確かなことは 「誰」 と 「何」 に関する答えです。 「誰」 に ついて言えることは、 「私」 と 「神」 です。 神は私の内で、 また、 私を通して働かれます。 神は頼れるお方であり、 信用できるお 方です。 私の成長が完了して神のご栄光が実現するまで、神は、 御恵みをあふれるように注いでくださいます。「何」 について言えることは、 紛れも無い真実で信頼できるも のに関する私の知識です。 私たちは、 真実を受け止める以外の 非生産的で破壊的な反応を断固として退けます。 また、 神の力 強い御手によって、 試練は最終的には喜びに変えられると信じ ることを選びます。 私たちは、 過去の体験や自分の感情に支配 された反応を許しません。 そして、 真実だと信じていることに沿っ て応答をするようにします。 神に関する真実に信仰によってしが みつき、 試練を喜びと見なします。

   神の約束、 神のご性質、 神 の御業を信じ、 神のなさることに服従し、 試練のもとで知恵と忍 耐が与えられるように祈ります。 私の品性と実力が成長し、 神の 栄光が反映されるまで、 そうします。成長と栄光の原則は、 聖書の中に何回も示されています。 私たちを御子の姿に似たものとするために、 神は必要なことをなさ います。 これが、 新約聖書を貫くテーマです。 神の目的は、 私 たちを有能で役立つ者に成長させることなのかもしれません。 ま たは、 神の御国にリスクを持ち込まないように困難を用いておら れるのかもしれません。 「自分のことは自分でする」という姿勢が、 苦難によって、 「神によらなければ何もできない」 という姿勢に変 えざるを得なくなったとき、 私たちは成長するのかもしれません。 神の栄光が私たちを通して輝くのは、 敵の攻撃をすべて、 私た ちの内に働く神を証明するものに変えようと、 私たちが頑張るとき です。 そのとき、 私たちを通して神が働かれます。       

(◎´∀`)ノ

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2016年4月17日 (日)

嵐のときにも(2/4)

2016.4.17.(日)嵐のときにも(2/4)

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超自然的な方法

   3 番目の確かな事実は、 神には私たちを超自然的な方法で救い出す選択肢もあるということです。 コリント人への手紙第一10章 13 節の後半は、 「むしろ、 耐えられるように、 試練とともに脱出の道も備えてくださいます」 と語ります。 ペテロの手紙第二 2 章 9 節は「信仰のあつい人を試練から救い出す」 (新共同訳) と述べていますが、 私はこのみことばが好きです。 八方ふさがりで逃れる窓も扉もないという困難な状況に追い込まれても、神は私を救う道をすでに備えておられます。 神は脱出路を作るエキスパートなのです。 サウルに追われていたダビデは、 冷たい洞窟の中で神に叫びました。 「主よ。いつまでですか。 あなたは私を永久にお忘れになるのですか。 いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。 いつまで私は自分のたましいのうちで思い計らなければならないのでしょう。 私の心には、 一日中、 悲しみがあ ります。 いつまで敵が私の上に、 勝ちおごるのでしょう」 (詩篇 13 : 1-2)。

   ダビデのように神に忘れられたと感じるとき、 私たちは自分で脱出の道を作りたくなります。 「そうだ、 こうしてみよう。 いや、 だめだ。 うまくいかない。 ああしてみよう。 いや、 これもうまくいかない。」 八方ふさがりで出口が見つからないように思えます。 目を見張るような神の奇跡によって、 イスラエル人たちはエジプトから救出されました。 しかし、 紅海まで来たところで、 追いかけて来るエジプト軍の砂埃を地平線の上に見たのです。 彼らの反応はどうだったでしょう。 「エジプトでは想像すらできなかった方法で、 神は救ってくださるに違いない。 あのときの十の災いを覚 えているか? あのような形で救済されるなど、我々は考えもしなかった。 今度はどんなことをしてくださるのだろう。 きっとすごい ぞ!」 このように言ったでしょうか。 いいえ。 実際は、 「エジプトに仕えるほうがこの荒野で死ぬよりも私たちには良かった」 と言っ たのです (出エジプト 14 : 12)。

 ところが神は、 彼らが夢にも思わなかったご計画を持っておられました。 神はモーセに言われました。 「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。 イスラエル人に前進するように言え。 あなたは、 あなたの杖を上げ、 あなたの手を海の上に差し伸ばし、 海を分けて、 イスラエル人が海の真ん中のかわいた地を進み行くようにせよ」(15-16 節)。この続きはご存じの通りです。海が分かれ、 イスラエル人は渡りました。 エジプト軍が後を追って入ると、 海は元に戻り、 彼らは石のように沈みました。 神の民は解放され、困 難は去りました。 神は正しい者を難局から救い出す方法をご存じなのです。

   クリスチャンになったばかりの婦人の相談に乗ったことがあります。 神に喜ばれる女性になりたいという願いを持っておられたので、 妻が夫のリーダーシップに寛大な態度で協力するということについて、 聖書のあちらこちらから学んでいました。 ある時、 彼女が言いました。 「先生、 大きな問題があります。 ダイニングセッ トを買おうと思い、自分のお金を今まで貯めてきました。 義母の持っているのと似たようなものが欲しいので、 中古品家具店を夫と一緒に見て回っているのですが、彼は上の空です。 気に入ったものがいくつかあったのですが、 夫は、 『ぼくは嫌いだ』 なんて言うんです。」 私は、 神の御業を忍耐強く待ちましょう、 と励ましました。 ところが次の週になると、 事態はかえって悪くなったと言います。 「夫は家具のことなんて、 どうでもよいのです。 フランス製の高級家具でも、 安物のリサイクル品でも同じです。 夫の興味は、 ソファーに座って新聞やテレビを見ることだけですから。」

   ところが、 二週間ほどたって、 彼女はこう言いました。 「先生。 信じられないことが起きました。 義母がダイニングセットを新調したから、 古いものをいらないかと尋ねてきたんです。」 神がいつもこのように働かれるわけではありませんが、 神の救済策が何通りもあることは明らかです。 私たちが苦しくても主に忠実であり、 忍耐をもって待ち続けるなら、 神のみこころのときが来ます。 そし て、 神の救済策は、 私たちが夢にも思わない方法です。

神の力

   4 番目の確かな真理は、 神の力は大変な状況の中で働いているということです。 すごく性能の良い車を持っている友人がいます。 その車に乗せてもらうと、 信号待ちのときに 「エンジンを かけて」 と言いたくなります。 この車は、 エンジン音も振動も全くないのです。 私が所有者なら、エンストしたと思ってエンジンキーを何十回も壊していたでしょう。 アイドリング中であることを示すタコメーターがなかったなら、 動力が作動していないと勘違いしま す。 神の力も、 問題解決に向けて作動中です。 しかし、 私たちは往々にして気づきません。 神の御業の痕跡が見えないこともあ ります。 ところが、 神の力は忙しく働いています。


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神の力は、 悪いものから良いものを生み出す

   神の力は少なくとも三方面で働いています。そのひとつは、ロー マ人への手紙 8 章 28 節が明らかにしています。 神の力は、悪いものから良いものを生み出します。 神の力とは、 最悪にひどい 状況を変化させ、 最終的には益を生み出すことができる驚異的なものです。 落胆したり失望したりしたときには、 創世記 37 章から 50 章までに記されているヨセフの物語を読んでください。 ヨセフは、 自分の家族に裏切られて奴隷に売られ、 エジプトに来ました。 ポティファルの家に仕え、 そこで地位を上げていきました。 すると、 主人の妻から日常的に誘惑されるようになりました。

   美しく官能的な妻を持つことは、 エジプト人にとって自慢でし た。 ポティファルは有力な官僚でしたから、 妻は絶世の美女だったでしょう。 夫は仕事で家を空けがちで、 彼女は寂しかったのかもしれません。 ヨセフは若くて凛々しく、 日々、万事を取り仕切っています。 ある日、 彼女は彼に取りすがり、 彼は逃げ出します。 神は言われました。 「ヨセフ、 よくやった。 私の心がよく分かっている。」

 

    ところが、 彼は三年間も投獄され、 誰からも忘れ去られてしまうのです。 (神はその間、 彼から高慢を取り去っておられたのかもしれません。) しかし、 神は、 みこころのときにヨセフを救い出し、 国王に次ぐ地位につけられました。その地に飢饉 (ききん) があり、 ヨセフを裏切った兄たちが食料を求めてやって来ました。 彼らの生命はヨセフの手中にあります。 後からエジプトにきた父が死ぬと、 兄たちはヨセフが仕返しのために自分たちを殺すのではと恐れました (創世記 50 : 15)。 彼らはヨセフの前にひれ伏しますが、 ヨセフは答えます。 「恐れることはありません。 どうして、私が神の代わりでしょうか。 あなたがたは、 私に悪を計りましたが、 神はそれを、 良いことのための計らいとなさいました。 それはきょうのようにして、 多くの人々を 生かしておくためでした」 (19-20 節)。 神の力は、ヨセフに起こっ た最悪の出来事を作り変えて、 良いものになさったのです。

   悪を益に変える神の力は、 あの十字架ではっきりと実証されました。 神の御子が犯罪者として十字架につけられました。 これほど不公平で、 残虐で、人として耐え難い瞬間が、 人類の歴史にあったでしょうか。 地獄では 3 日間、 大喜びです。 サタンが勝ちどきを上げました。 勝利の御子をやっつけたのです。 ところが、神はこの驚異的な悪を転じて、 素晴らしく良いものにされました。 それは、罪からの救いです。地獄は天国に取って代わられました。

   残念なことですが、 私たちは忍耐して待つことをせず、 自分なりにものごとを進めようとしがちです。 神が素晴らしいことをしようとしておられるのに、 私たちは復讐しようとしたり、 自分の意地を通そうとしたりで、 神の御業の邪魔をします。 私たちは 「罪を犯したことがなく、 その口に何の偽りも見いだされませんでした。 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、 正しくさばかれる方にお任せになりました」 (Iペテロ 2 : 22-23) というキリストの模範に倣わなければなりません。

神の力は、 私たちの敵を取り扱われる

   次に、 神の力は、 私たちの敵を取り扱われると言えます。 ヨセフは兄弟たちに 「どうして、 私が神の代わりでしょうか」 (創世記 50 : 19) と言いましたが、 この態度は適切です。 パウロは、「だれに対してでも、 悪に悪を報いることをせず、 すべての人が良いと思うことを図りなさい」 (ローマ 12 : 17) と教えました。 神は正義を行われるのだから、 兄たちに復讐するのは自分の役目ではないという姿勢は、真理の教えを実践しています。 「神さま、 彼らのことはお任せました。 どうぞよろしく」 と言えるなら、 私たちの心は自分の敵から解放されます。 そして、 神に倣うものとなっ て敵を愛せるようになります。

   聖書は語ります。 「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。 神の怒りに任せなさい。 それは、こう書いてあるからです。 『復讐はわたしのすることである。 わたしが報いをする、 と主は言われる。』 もしあなたの敵が飢えたなら、 彼に食べさせなさい。 渇いたなら、 飲ませなさい。 そうすることによって、 あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。 悪に負けてはいけません。 かえって、 善をもって悪に打ち勝ちなさい」 (ローマ 12:19-21)。 私の人生にトラブルを持ち込む人がいても、 神が、その人をふさわしく取り扱われると分かっているなら、 大らかな気持ちになれます。 そして、その人を愛せるようになります。

   イエスは言われました。「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』 と言われたのを、 あなたがたは聞いています。 しかし、 わたしはあなたがたに言います。 自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。 それでこそ、 天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。 自 分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。 取税人でも、 同じことをしているではありませんか。

   また、 自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、 どれだけまさったことをしたのでしょう。 異邦人でも同じことをするではありませんか。 だから、 あなたがたは、天の父が完全なように、 完全でありなさい」 (マタイ 5 : 43-48)。問題は、やはり私たちが邪魔すること、 つまり自分の想いで動くことによって、 神の計画を阻害することです。 神は、 何が正義かという判断を下したり、 敵に復讐したりする能力を人に与えられませんでした。 ですから、 そんなことをしようとすると必ず失敗します。 これをきちんとする権利や力、そして知恵をお持ちなのは、 神だけです。

   私のところにやって来て、 夫の悪口を長々と述べ立てた婦人がいました。 結婚してどのくらいになるのかと尋ねると、 40 年以上だと言います。 私は、家庭を壊すような助言をするつもりはいささかもありませんが、 ひどい夫だと言い続けるので、ついにこ う尋ねました。 「おっしゃることが事実なら、なぜ今まで一緒にいたのですか。 別れようとは思わなかったのですか。 勧めるわけではありませんが、お考えが知りたいのです。」 彼女は言いました。 「とんでもない。 離婚なんて考えたこともないわ。」

   立派なことだと感心するのは早計でした。 話を聞き続けていくと、 彼女が夫を憎んでいることは明らかでした。 離婚してしまったら、 もはや夫を苦しめることができなくなるので、 別れずにいたのです。 敵をたたきのめす機会をひとつとして逃したくなかったのです。 私たちは、 もっとましな生き方に召されています。 私たちはトラブルの真っただ中で、 神を信じます。 神が私の敵に報いられると信じるのです。 そうすれば、 解放されて天の父に似た者となれます。 自分をのろう者を祝福し、 意地の悪い者のためにも祈り、敵を愛する自由を得ます。神の力がその人を最終的に、正しく裁かれるからです。

神の力は、 私たちを離さない

   さらに、 コリント人への手紙第二4章7~ 9 節には、 次のように記されています。 「私たちは、 この宝を、土の器の中に入れているのです。 それは、この測り知れない力が神のものであって、 私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。 私たちは、 四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。 迫害されていますが、 見捨てられることはありません。 倒されますが、滅びません。」

   嬉しいことに、私という存在は、神の目に高価で尊いものです。 私は崖っぷちに立たされるかもしれません。 しかし、神と正しく向き合い、 試練と適切に付き合うならば、 すべてを治める神 は素晴らしい御力によって、 どんなときも私を守ってくださいます。詩篇にはよく、神がその右の手で私たちを支えると書かれています。「神の右の手」 とは、力を表す旧約聖書的な表現です。 子どもの手を引いて歩くときのことを思い出してください。 子どもは理由もなく突然足を滑らせて、バランスを崩すことがあります。 しかし、あなたの腕の力が、その子を「破滅」から救うのです。 何と素晴らしい比喩でしょう。 私たちは、神の強い右の手に支えられて人生という道を歩んでいます。足を取られて転びそうになっても、 神の支えがあるので大丈夫です。 神の力は確実です。 私たちは結局のところ守られているので、完全な破滅に至ることは ありません。

神の支え

   5 番目の確かな真理は、神の支えです。 パウロは、コリント人 への手紙第二 12 章7~ 9 節で、「肉体のとげ」との闘いを語っ ています。 これを取り去ってくださいと 3 度も祈りましたが、 その願いは叶えられませんでした。 そこで、この苦しみが生涯続くこ とを受け入れました。 そして、自分の弱さの中に神の強さが表されるようにしよう、 と前向きに決意しました。 その結果、 パウロは発見したのです。 神の恵みは試練を生き抜くサポートとして、十分すぎるほどのものでした。

   長い牧会生活の中で、私は想像を絶する苦しみの中にいる人たちの傍らに立ってきました。 実際のところ、「すごいなぁ」と感心することが少なくありません。 自分だったら、どうすることもできなくなってしまうだろうと思います。 そんなとき、パウロの 「(神の) 恵みは十分である」(IIコリント 12:9)ということばが響いてきます。 神の恵みは、永遠の御腕のようです。 私たちを包み、私たちを支えてくださいます。 倒れそうになれば、その御腕がさっと前に差し伸べられ、私たちを受け止めてくれます。

   私たちが助けるに値するから、神の恵みをいただけるのでは ありません。 神の恵みは、 苦難のとき、そこにある助けです。 神の恵みはどれほどあるのでしょう。それが尽きてしまうほど、 大きな問題があるでしょうか。そんなものはありません。 ですから、 パ ウロは 「わたしの恵みは、 あなたに十分である」と神に語られた のです。

目的を達成するプロセス

   6 番目の原則は、神は困難を用いられるということです。 神は、 私たちの人生に目的を持っておられます。私たちの悲しみの体験が、無駄になることはありません。 神が許可された苦しみは、 神によって、神の目的のために用いられます。 聖書的な目的はふたつです。 ひとつは、私たちの成長 (ヤコブ 1 : 2-4)、 もうひとつは神の栄光です (ヨハネ 9 : 3)。 困難は周囲の人々の目 を引きつけます。 ヘブル人への手紙 10 章 33 節には 「そしられ苦しめられて見せ物にされたこともあれば、このようなめに会った人々の仲間にされたこともあった」 (口語訳) と記されています。

   あるクリスマス、 私たちの子どもに消防士の帽子のおもちゃをくれた人がいました。 電池で赤いライトが光り、サイレンが鳴る、いわゆるありがた迷惑なプレゼントです。 子どもたちはライトを点滅させ、サイレンを鳴らして家中を走り回るので、彼らの存在感は絶大です。 困難はこれに似ています。 困難に襲われるや否や、 ライトが点滅したかのように、みなが注目します。 さあ、絶好のチャンスです。 聖書的に試練に対処しましょう。私たちは 「見せ物」なので、私たちの内に働く神の臨在と力を見せることができます。困難は、神の栄光を現し神の強さを告げるステージです。

   私は、 ジョニー・エレクソン・タダという女性が、神を深く愛していると証しているのを見ました。首から下が麻痺しているのに、 車いすに座る彼女の顔は輝くばかりでした。 彼女はキリストに生かされて、 喜んで生きていました。彼女の試練は生涯続きますが、それでも、神が実在しておられ、満足を与えてくださり、不可能を可能にされていることは一目瞭然でした。自己憐憫 (れんびん)、いじけ、後悔は、苦しみに対する非聖書的な応答です。それとは対照的に、 ジョニーの苦しみは、神の臨在と力を証明し、神の栄光と恵みを雄弁に語っていました。 神の恵みと神の力が、リアルに現されていました。

   苦しみは、神の力を見せる舞台です。神の力は、奇跡的な救いという形で現れることもあれば、好転しない状況の中での赦しや平安という形で現れることもあります。 私たちは、ある特権を授かっています。 それは、試練によって 「見せ物」にされるとき、聖書的に試練に応答することによって、神の栄光を曇らそうとするサタンの企てを打ち砕くという特権です。 困難があるからこそ、神が礼拝されるにふさわしいお方であることを示せます。 困難があるからこそ、私たちは率先して神に従います。 痛みのただ中で、神の臨在と力と平安の現実を示すのです。 神の栄光を表すという目的にとって、痛みは欠かせないプロセスです。

   また、私たちの人格や生きる力が育つためには、痛みを避けることはできません。 ヤコブの手紙1章2~4節によれば、さまざまな試練は 「何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者」となるために役立つので、この上もない喜びと思うべきものです。どのようにして、試練が完全な者を作るのでしょう。ヤコブの手紙の続きを読むと、4 段階のプロセスが書かれていま す。 信仰が試され、忍耐が試され、服従が試され、そして祈りに頼ることが試されるのです。(次号に続く)

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嵐のときにも(1/4)

2016.4.16.(土)嵐のときにも(1/4)  ジョー・ストール(米国コーナーストーン大学学長)(;ω;)

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真理があなたを守る

   パイロットは、 嵐や暗闇の中を自分の感覚に頼って飛ぶと、方向感覚を失うと言います。 視界ゼロで飛行すると、 自分ではまっすぐ前進していると感じても、 実際は周回している場合があると経験者は語ります。 このような場合、 パイロットの体感と計器の表示は正反対です。安全に飛行するには、計器に頼らねばなりません。 計器こそが、 パイロットに事実を正しく告げてくれるからです。

   困った状況になったとき、 確実なものは、 自分の感じとは無関係に真実を伝えてくれる計器類です。 傷ついている人たちは、 私によくこう言いました。「頭の中では何が正しいか分かっている。 でも何かしっくりこないんだ。」 私たちは、 頭でしか分からないなら助けにならない、 と考えがちですが、 そんなことはありません。

   痛みから抜け出すプロセスのひとつは、 頭で理解していることを逃がさないようにすることです。 心が傷ついて機能していない時は、脳から感情への情報伝達が途絶えてしまったかのように感じますが、 それはそれで良いのです。 ただ、 頭で解っていることを無視してはいけません。これこそが、困難を乗り切る鍵です。 神のみことばが 「それをこの上もない喜びと思いなさい。 ...あなたがたは知っているからです」 (ヤコブ 1:2-3) と言っているのは、 まさしくこのことです。

   私たちは試練の中で何を知ることができるのでしょう。 困難の真っただ中にいるとき、 首尾よく脱出に導いてくれる、 信頼できる計器は何でしょう。揺るがされない真理は、ヤコブの手紙 1 章 3 ~ 4 節によるなら、 「信仰がためされると忍耐が生じる」 ということです。 また、 「その忍耐を完全に働かせ」るべきだということ、 そうすれば、 「何一つ欠けたところのない、 成長を遂げた、 完全な者」 となることが できるというものです。 つまりヤコブは、 痛みは目的を果たすための過程だと言っているのです。 このことを知っているなら、 私たちの応答は喜びとなり得ます。

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   私たちが困難に見舞われたとき、 自分の心をしっかりつなぎ留めてくれる碇 (いかり) は、 聖書の中に少なくとも 6 つあります。共通性の原則 「自分だけではない」この 6 つの碇のうち、 「頭で理解できる」 3 つの真理は、 コリ ント人への手紙第一 10 章 13 節にあります。 最初の部分はこうです。 「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではあ りません。」 残念なことですが、 英語の 「試練」 (temptation) という単語は、罪の誘惑という意味でのみ使われる傾向にあります。 確かにそれは、 この単語の意味のひとつですが、 それだけにしてしまうなら、 このみことばの教えを著しく狭めてしまいます。 この「試練」 (temptation) という単語は、 興味深いことに、 ヤコ ブの手紙 1 章 2 節の 「試練」 (trial) と同じ語群の中にあります。 「私の兄弟たち。 さまざまな試練に会うときは、 それをこの上もな い喜びと思いなさい。」

   つまり、 コリント人への手紙第一 10 章 13 節は、「あなたがた の会った困難は、 みな人の知らないものではありません」 と読むことができます。 ここから、困難に直面した際によりどころとなる、 第一の原則を導き出すことができます。 それは、「自分だけではない」 ということ、 すなわち共通性の原則です。

   その種の問題に遭遇したのは、 あなたひとりではありません。 これは確かです。 神が人類の歴史の中からあなたひとりをお選びになって、 このような状況を体験させられているわけではありません。 あなたの前にも後にも、 あなたのような人がいます。「同病相憐れむ」 と言いますが、 実は、悲しむ者には友が必要です。 それは、 ひどい孤独感から私たちを守り、 同じ苦しみと戦った人たちを捜し出す力をくれ、 その苦しみに未だ遭遇して いない人たちを助けるために役立ちます。 現代の日本の教会は、 昔にはなかった恵みがあります。 そのひとつは、 良質のキリスト教書籍が豊富にあることです。 今日、 キリスト教書店は、 苦しみ を体験した人々の良い証を見つけることができます。 それは、 苦 難を忍んだ英雄たちの伝記、突然の悲劇、 虐待、 家庭崩壊、 失望など、 色々な問題を具体的に取り扱った文書です。

 あなたが今、 試練の中にあるならば、 同じような苦しみを通って恵みを知り、 成長し、 栄光を見るに至った人を見つけることが できるはずです。 支えてもらったり、 洞察を与えてくれる人たちとつながることは、 大変役に立ちます。 最後まで戦い抜いて、 勝 利を収めた英雄たちを捜してください。 あなたの苦しみは、 あなたひとりのものではありません。 神は、 ご自身の恵みとあなたの成長を、 みこころのときにひとつにされ、 「私も同じ経験をしました。 私にできることはありますか?」 という声かけを待っている人 のために用いられます。 こうしてあなたは 「共通性の原則」 とい う真理を実現させるのです。 牧師としての大きな葛藤は、ひどい 苦しみの中にある方々のそばに立つことでした。 軽々しく 「お気持ちは分かります」 と言うべきではないことを、 私は早くに学びました。 私には分からないからです。 経験がないのですから。 ところが、 現にそういう経験のある人がそこに現れて、 苦しんでいる 聖徒の肩に手を置き、 「分かりますよ。 話しましょう」 と言うことが あるのです。

   許容範囲内の原則 「耐えられるからこそ」ふたつ目の現実は、 許容範囲内の原則という真理です。 コリ ント人への手紙第一 10 章 13 節は、「神は真実な方ですから、 あなたがたを、 耐えられないほどの試練に会わせるようなことはなさいません」と続きます。 ここに、 耐えられない試練は与えられないことが保証されています。 小川に架かる橋の手前に 「重量制限 5 トン」 という標識があるようなものです。 神は、 私たち の 「重量制限」をご存じですから、 私たちの荷を制限されます。私が以前に住んでいた州には、 ビンの回収条例がありました。 空きビン 1 本を返却すると 10 セントになりました。 しかし、 度々返却に行くのは面倒です。 というわけで、 空きビンがガレージに 山積みとなり、 これ以上放っておけなくなってきました。 ある日の夕方、 ついにスーパーへ持って行くことにしました。 すると、 就 学前だった息子のマシューがガレージまでついて来て、 立派なことに 「パパ、 ぼくが手伝うよ」 と言ったのです。 (幼くて助けに ならない時には手伝いたがり、 頼りになる年頃になると手伝いに興味を示さない。 子どもはなぜそうなのでしょう。) 私は 「じゃあ 頼んだよ」 と答えました。 彼は、ビンの入った箱をふたつ抱えて、 苦労して車に入れました。

   ふたりしてスーパーに出かけました。 私はカートを持って来てビンを山積みにし、 腕にも少し抱えて歩きました。 マシューはビンをふた箱抱えていましたが、 駐車場を半分横切ったところでそれを地面に降ろし、 私を見上げてつらそうに言ったのです。 「パパ。 無理だよ。 重すぎて。」 それに答えて私が、 「いいかい、 マ シュー。 君が言い出したんだから、 元気を出してきちんとやるんだ。 ビンを持ち上げろ。 5 つ数える間に」 と言ったと思いますか。 言うわけありません。 父親ですから、 息子の限界は分かります。 私はマシューの箱を拾い上げて、 カートに乗せました。 さて、 罪人である私が自分の息子にこうするのなら、 私をよくご存じの天の御父は、 私に耐えられないような荷を負わせられるでしょうか。 答えは言うまでもありません。 神があなたの人生に許される苦難 は、 あなたにとって耐えられるものなのです。

   これには耐えられそうもない、 と思うことがないわけではありません。 しかし、 私たちのことを私たち以上に知り尽くしておられる 神が許されたのなら、 その問題は、 私たちの許容範囲を超えていないはずです。 この保証の中には、 私たちは曲げられることはあるが壊されることがない、という約束も含まれています。 私た ちの人生がもろくも崩れてしまうのは、 私たちが試練に対して不適切な応答をするからです。 自分の不適切な応答によって、 敵 意や恨みなどという荷を自ら追加してしまうからです。 この原則に は、見逃してはならない重要な点があります。 神は長いこと 「私」のためには何もしてくださらない、 と感じる時が、 誰にでもあります。 神は他の人のためには色々されているのに、 私の人生には 超自然的なことがほとんど起こらないと。 私たちはふてくされて、 神はどこかで働いておられるだろうが、 「私の人生には働かれな い」と思ってしまいます。

   しかし改めて考えれば、 もし、 神が罪から贖う以外には何もしてくださらなかったとしても、 私は神から身に余るものを受けてい ます。 罪の贖いだけでも、 残りの人生を神の栄光のためにささげる十分な理由です。 けれども、 神はそれ以上のことをなさっています。 私という存在の門番として毎日、 すべてを計り、 私の許容 範囲を超えるものが入り込まないように、 未然に削除しておられます。 私の知らないうちにです。 時々、 私は床に就く時に、 私 の知らない間に神がしてくださったことを感謝することがあります。 何も感謝することがないと思ったら、 あなたの問題が耐えられるも のであること、 そして致命傷になるものから神があなたを守ってく ださっていることを感謝してください。(次回に続く)

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 4月14日(木)21時26分に起きた熊本地震は、私たちの教会の祈り会が終わった直後に発生しました。夜であったので、被害の状況はあまりわかりませんでしたが、夜が明け、日が経つにつれ被害の大きさに衝撃を受けています。これは、熊本では、100年に一度という大きなもので、神戸の地震とほぼ同じ規模だそうです。

   5年前の東日本大震災の直後に、T牧師の案内でいわき市の海岸を訪れた時、その光景には、涙する以外に何もできませんでした。T牧師と涙しながら祈りました。

   熊本といえば、私の親友の一人であった牧師の生まれ育った町です。彼は、高専でラグビーの名選手で、非常に健康な人でしたが、数年前、ガンで天に召されました。彼は、50歳代後半でした。彼の生き方は、まさに、キリストに忠実に従い通した人生でした。私がアメリカの神学校で何度もくじけて、神学校を辞めそうになった時、彼は、いつも励ましてくれました。卒業アルバムには、彼の自筆で、"II Cor. 12:9" Kim Namba、と書いてあります。

   それは、新約聖書の第2コリント12章9節です。"But he said to me, “My grace is sufficient for you, for my power is made perfect in weakness.” Therefore I will boast all the more gladly of my weaknesses, so that the power of Christ may rest upon me. " (EVS)

12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

   どんな試練、苦しみが襲っても、わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」この約束をしっかりと確信して生涯を全うしたいです。

   熊本の人々のために祈るのは当然ですが、行動において何かすることもとても大切です。

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2016年4月16日 (土)

天国からの奇跡

2016.4.15.(金)天国からの奇跡


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  • それは─ 小さな命の、大きな『奇跡』。
  • 全米を涙で包み込んだ、心揺さぶる
  • 《真実の物語》が遂に映画化!

小さな田舎町で暮らす少女アナは、幼い頃から重い消化器疾患を患い入退院を繰り返していた。母クリスティは遠方の大病院へ診察を頼み、やっとのことでアナは入院するも、治療の方法がなく自宅に戻る。一方、二人が留守にしていた間、夫や姉妹との間にも亀裂が生じていた。そんな中、アナが庭の大木から落ちてしまう事故が起こる。幸い一命を取りとめたが、彼女の身にある驚くべき“奇跡”が待ち受けていた。

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この映画は、6月18日に劇場で公開されます。まだ、見ていないのですが、5月の末に試写会(抽選)に行く予定です。主演女優の方は、この映画で演じた後、信仰がよみがえってきたそうです。今年の夏には、聖書を前面に出した3本の映画が普通の映画館で上映されます。多くの人がイエス様の福音に触れる機会となります。日本のリバイバルを祈りましょう。(*^.^*)

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2016年4月14日 (木)

キリストは3日目に墓からよみがえられた

2016.4.14.(木)キリストは、3日目に墓からよみがえられた

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ルカによる福音書23:32-24-11

23:32ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。

23:33「どくろ」(Kranivon)と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。

23:34そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。

23:35民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」

23:36兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、

23:37「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。

23:38「これはユダヤ人の王。」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。

23:39十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。

23:40ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。

23:41われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」

23:42そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」

23:43イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

23:44そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。

23:45太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真二つに裂けた。

23:46イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

23:47この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった。」と言った。

23:48また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰った。

23:49しかし、イエスの知人たちと、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちとはみな、遠く離れて立ち、これらのことを見ていた。

23:50さてここに、ヨセフという、議員のひとりで、りっぱな、正しい人がいた。

23:51この人は議員たちの計画や行動には同意しなかった。彼は、アリマタヤというユダヤ人の町の人で、神の国を待ち望んでいた。

23:52この人が、ピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。

23:53それから、イエスを取り降ろして、亜麻布で包み、そして、まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエスを納めた。

23:54この日は準備の日で、もう安息日が始まろうとしていた。

23:55ガリラヤからイエスといっしょに出て来た女たちは、ヨセフについて行って、墓と、イエスのからだの納められる様子を見届けた。

23:56そして、戻って来て、香料と香油を用意した。安息日には、戒めに従って、休んだが、

24:1週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。

24:2見ると、石が墓からわきにころがしてあった。

24:3はいって見ると、主イエスのからだはなかった。

24:4そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。

24:5恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。

24:6ここにはおられません。よみがえられた(hjgevrqh)のです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。

24:7人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」

24:8女たちはイエスのみことばを思い出した。

24:9そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。

24:10この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。

24:11ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。

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   一昨日、都内で「復活」の試写会に参加しました。よみがえりを目撃したローマの一人の兵士がキリストを信じて変えられていくという創作の映画でした。日本語の字幕も聖書に出来るだけ忠実に訳したという責任者の方のコメントがありました。キリストを本当に求めている求道者、また、救いの確信がぐらついている信者の方には助けになるでしょう。

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   5月29日から劇場で公開が始まります。是非、多くの人に見ていただきたいです。「復活」、「天国からの奇跡」、「祈りの力」という、これほどまでに聖書の教えをはっきりと出した三本の映画が普通の映画館で3週間も上映されることは素晴らしいことです。一人でも多くの方が見に行かれるように祈りましょう。北海道から沖縄まで日本全国で公開が予定されています。

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2016年4月13日 (水)

神のみこころにかなった祈りは答えられる

2016.4.13.(水)神のみこころにかなった祈りは答えられる

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   昨日の夕方、都内で「いのりの力」(原題:War Room, 戦いの部屋)の試写会に参加しました。非常に良くできた映画で、参加者全員が励まされました。あらすじは、南部にすむ黒人の夫妻と小学生の娘さん、また、このこじれた結婚関係を助けた老婦人の物語でした。神のみこころにかなった祈りは、神のタイミングの時に聞かれることを、この映画は教えています。クリスチャンの戦いは、悪魔との戦いであり、この悪魔に勝つ方法は 、信じて、忍耐を持って祈り続けることです。この霊的な老婦人が若い奥様に本当の祈りを教えながら弟子訓練をしました。この老婦人もかつては、自分の夫と不仲でしたが、祈りを通して勝利を勝ち取ったのです。



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   日本のリバイバルも、救われている人々が心を一つにして粘り強く祈るなら、神のタイミングの時に応えられると確信します。試写会の責任者の方は、「祈りはすべて叶えられる」のではなくて、「神のみ心にかなった祈りは、必ず答えられることを覚えましょう。」と励ましてくださいました。この映画は、7月9日から3週間、劇場で上映されます。すべてのクリスチャンにオススメの映画です。



ヨハネの福音書14:13-14

14:13 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。

14:14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。

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2016年4月11日 (月)

キリストは突然来られる

2016.4.11.(月)キリストは突然来られる

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1テサロニケ4:11−5:3

4:11 また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。

4:12 外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。

4:13 眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。

4:14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。

4:15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。

4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、

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4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

4:18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。

5:1 兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。

5:2 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。

5:3 人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。

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2016年4月 5日 (火)

2016.4.5.(火) 二年に一度の宣教会議

2016.4.5.(火)2年に一度の宣教会議  (*^-^)

(ホテル近くに咲いていた水芭蕉とカタクリの花)

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   日曜日の夕方から始まった宣教会議は、すべての議題を有意義に話し合い、実りある時となりました。主から頂いた確かな召しを再確認しあい、みことばを聞き、祈り合い、励まし合いました。また、それぞれの地域の宣教師が、現状を報告し、また、将来のビジョンを熱く語りました。あと数年したら、新しい宣教師、二組が、加わってくださる予定です。主の尊い働きとビジョンがスムーズに彼らにバトンタッチできるようにお祈りください。また、新しい宣教師がさらに加わってくださるようにも祈りましょう。

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   今朝のディボーションは、Y師がヨハネ書1章前半から、み言葉を正しく伝えることの大切さを語ってくださいました。新改訳聖書、文語訳聖書、コイネーギリシャ語、ヘブライ語を交えて、熱気を持って教えてくださいました。使徒ヨハネが書いた、ロゴス、キリストとそのの教えの確実さと、進化論、唯物論を基礎にした世界観の曖昧さ、不確実さが語られました。どれほど多くの日本人が、不確実で間違った科学によって騙されているでしょうか。

ヨハネ書1:1-5

1:1 初めに、ことば(キリスト)があった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

1:2 この方は、初めに神とともにおられた。

1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

   私たちクリスチャンは、福音を正確に、分かりやすく末信者の日本人の皆さんに伝える義務があります。そのためには、聖書を真剣に毎日学ぶ必要があります。宿泊したホテルの壁のあちこちに、Mという仏教者の、ファジー(曖昧)な短い詩が貼ってありました。それは、まさに、真理も偽りもはっきりさせない、自然体という考え方の詩でした。それは、白でもない、黒でもない、日本的なものの考え方、人生観でした。そこには、全く希望はありません。イエスさまは、「YesはYes、NoはNo!」であるべきだと教えられました。イエスさまご自身は、ヨハネ14:6で次のように主張されました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」私たちも真理だけを語るべきです。

   私たちは、福音を曖昧に語るのではなく、ペテロが言ったように、「3:15むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」(ペテロの手紙第一3:15)誰にでも、いつでもキリストにある希望を、弁明できようようにみことばをじっくりと学び、祈り、聖霊によりたのんで用意しようではありませんか。すべての救われたクリスチャンが、この世のファジーな教え(進化論、唯物論、物質第一主義など)に騙されることなく、聖書の教えに固く立って、確信を持って、福音を伝えていきましょう。私たちの会議のために祈ってくださりありがとうございました。

(* ̄ー ̄*)

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2016年4月 4日 (月)

世界宣教の必要性

2016.4.5.(月)世界宣教の必要性 ヽ(´▽`)/

ルカの福音書10:1-2

10:1 その後、主は、別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。

10:2 そして、彼らに言われた。「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。

   世界中では、多くの人々が救いを必要としています。キリストの福音を聞くことがなければ、誰も救われないからです。使徒の働き4:12 「この方(イエス・キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」世界中に出て行って、この方を宣べ伝える必要が急務です。もし、そうしないなら、世界の多くの人々は永遠の滅びの場所、地獄へ行くことになります。

ローマ書10:14-15

10:14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。

10:15 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」

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   神様は、正しい信仰に立つ教会を通して、そのような人々を召しだされます。もし、そのようなな人々に出会わなかったなら、私たちは救われていなかったでしょう。私は、60才代前半のスエーデン人の独身宣教師の聖書英会話の働きを通して、クリスチャンになりました。彼女は、神様から宣教の召しを受けて、約8,200kmも離れた国から愛知県の豊橋市に、キリストの福音を伝えに来ました。もし、彼女が結婚していて、スエーデンにいたらそれは不可能でした。

   私たちの神学校の一番最初の卒業生ご夫妻は、アジアで一番貧しい国、また、不衛生と言われる国に宣教の召しを受けて、25年以上忠実に働いておられます。日本から、約4,000km離れた国で、毎日、多くの人にキリストの救いを伝えておられます。沢山の人々が救われています。彼らの娘さんとご主人もこの国で、福音を伝えるために召しを受けました。彼女は、小さい頃に、宣教師の両親とこの国へ行き、現地の人々を非常に恐れていました。しかし、数年前に、現地の、非常に熱心は青年と出会い、結婚し、子供さんも生まれ、現在、アメリカで学び、宣教師としての準備をしています。これは、まことの神様の働きと言うしかありません。

   世界宣教の責任は、欧米の教会だけだと考えている人が多くいるかもしれません。しかし、そうではなりません。私たちの小さいな教会でも、タイ、カンボジア、バングラデシュ、ロシアなどの宣教師たちの働きをサポートしています。これらの国々は、もっと多くの働き人を必要としています。私は、神学生の頃、19世紀に中国奥地伝道の働きをしたハドソン・テーラー宣教師の研究をしました。彼の働きに深い感銘を受けて、自分も中国奥地へ行きたいと祈り考えましたが、その国は、閉鎖されていました。私の霊的な恩師のS宣教師の祖父母も、父母も中国への宣教師でした。

   私の親しい知人で、同じ宣教団の息子さんは、台湾、中国、グアムなどのアジアの国々の中国人を神学的に訓練しております。彼自身、時々、中国本土に行って、宣教して、弟子訓練をしています。彼は、自分の生涯を、パウロのように独身を貫いて、一人でも多くの中国人が救われるようにキリストを証ししています。私を導いてくれたスエーデン人の独身宣教師のキリストへの服従と忠誠心なくして、私の救いはなかったです。

   私たちは、日本のクリスチャンとして、もっと、もっと世界中に宣教の重荷を持ち、また、出て聞くべきではないでしょうか。タイのI宣教師ご家族、カンボジアのS宣教師ご家族、バングラデシュのT宣教師ご家族、ロシアのS女性宣教師のように神の召しに従う青年たちを神様は求めておられます。あなたも、神様の召命に従っていこうではありませんか。

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日本での宣教

2016.4.3.(日)日本での宣教  

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使徒の働き1:8-9

1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

1:9こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。

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  1960年初頭に、アメリカから数名の宣教師が東京にやってきました。日本語Army158 を学びながら東京で伝道を始めました。しかし、彼らは、東北地方に重荷を持ち始め、働きを福島市に移しました。数名の宣教師は、福島市で開拓伝道を始め、教会が設立されました。(1960年代初頭の東京の街並み)


  福島県では、郡山市、二本松市、白河市、いわき市、石川町、宮城県では、白石市にも教Imged6e25a7zik1zj_2 会が建てられていきました。(順不同)安達太良山の麓には素晴らしキャンプ場が与えられ、墓地、また、私たちのミッションの本部も立ちました。その当時、小さな神学校もあったそうです。(キャンプ場)

二人の宣教師は、四国でも働きを始めました。

  沖縄でも開拓が始まりました。石垣市でも宣教の働きが始まり、この宣教師は、島々に福音丸という船を使って伝道に出かけました。現在、沖縄から二人の神学生が当神学校で学んでいます。


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  大分経ってから、東京の多摩市にも開拓伝道が始まり、教会が設立されました。神学校は、多摩市で始まりましたが、現在は、さいたま市に移転しました。さいたま市岩槻区でも開拓が始まり、その働きは現在も続いています。千葉県では、宣教師によりニュータウンでも宣教が始められ、現在も続いています。

 

   今晩から、二年に一度のBMMJapanの会議が持たれています。20年前は、4Thsss 0名以上の宣教師がいましたが、現在は、7名だけになってしましました。新しい宣教師が与えられるように祈ってきましたが、ついに、主は祈りに答えて下さり、G宣教師家族が日本へ来ることになりました。また、最近、Tご夫妻が日本への宣教師となることが決まり、BMMJapanで来ることを祈っています。実際に日本に来るためには、多くの教会を訪問し、祈りと経済的なサポートの必要を訴えに行きます。ですから、日本に来るまでには、4~5年かかると思われます。是非、皆さんのお祈りをよろしくお願いいたします。今日から水曜日まで、郡山市の郊外で会議が続きますが、大きなビジョンを持って、実りある会議ができるようにもお祈りください。



   私たちのミッションのT議長は、当神学校の卒業生が宣教しているアジアで最も貧しい国の一つで10日間の宣教の旅から帰れました。その国の貧しさの中で、多くの人がキリストに導かれるところを自分の目で見て、感動して、この会議で、ホセア書のみ言葉から分かち合って下さり、宣教師全員は、大きな祝福と励ましを受けました。

   この国で起こっているリバイバルが、やがて日本にも起こることを主に期待して、日々、忠実にキリストに仕えていきましょう。日本では、キリスト教が不毛の地、絶対に根がつかず、枯れてしまうと江戸時代から言われてきましたが、私たちは、リバイバルが起こること、いや、神が起こしてくださることを確信して、日本での宣教を忠実に進めていきましょう。

(* ̄ー ̄*)

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2016年4月 3日 (日)

働き人が与えられるように祈ろう。

2016.4.3. (日)働き人が与えられるように祈ろう

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「畑は色づいて収穫を待っています。

働き人が与えられるように祈りましょう。」

マタイの福音書28:18-20

「28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、

28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

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   現在、アメリカの3カップルが、日本で宣教師として働くために準備をしています。ガナマンご夫妻、トンプソンご夫妻、舟田ご夫妻です。しっかりと準備が出来て、神様のみ心の時が来るまで、彼らのために忠実な祈りで支えましょう。よろしくお願いします。

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12593915_10205837690612625_918781_3(*゚▽゚)ノ

 

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