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2016年4月17日 (日)

嵐のときにも(1/4)

2016.4.16.(土)嵐のときにも(1/4)  ジョー・ストール(米国コーナーストーン大学学長)(;ω;)

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真理があなたを守る

   パイロットは、 嵐や暗闇の中を自分の感覚に頼って飛ぶと、方向感覚を失うと言います。 視界ゼロで飛行すると、 自分ではまっすぐ前進していると感じても、 実際は周回している場合があると経験者は語ります。 このような場合、 パイロットの体感と計器の表示は正反対です。安全に飛行するには、計器に頼らねばなりません。 計器こそが、 パイロットに事実を正しく告げてくれるからです。

   困った状況になったとき、 確実なものは、 自分の感じとは無関係に真実を伝えてくれる計器類です。 傷ついている人たちは、 私によくこう言いました。「頭の中では何が正しいか分かっている。 でも何かしっくりこないんだ。」 私たちは、 頭でしか分からないなら助けにならない、 と考えがちですが、 そんなことはありません。

   痛みから抜け出すプロセスのひとつは、 頭で理解していることを逃がさないようにすることです。 心が傷ついて機能していない時は、脳から感情への情報伝達が途絶えてしまったかのように感じますが、 それはそれで良いのです。 ただ、 頭で解っていることを無視してはいけません。これこそが、困難を乗り切る鍵です。 神のみことばが 「それをこの上もない喜びと思いなさい。 ...あなたがたは知っているからです」 (ヤコブ 1:2-3) と言っているのは、 まさしくこのことです。

   私たちは試練の中で何を知ることができるのでしょう。 困難の真っただ中にいるとき、 首尾よく脱出に導いてくれる、 信頼できる計器は何でしょう。揺るがされない真理は、ヤコブの手紙 1 章 3 ~ 4 節によるなら、 「信仰がためされると忍耐が生じる」 ということです。 また、 「その忍耐を完全に働かせ」るべきだということ、 そうすれば、 「何一つ欠けたところのない、 成長を遂げた、 完全な者」 となることが できるというものです。 つまりヤコブは、 痛みは目的を果たすための過程だと言っているのです。 このことを知っているなら、 私たちの応答は喜びとなり得ます。

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   私たちが困難に見舞われたとき、 自分の心をしっかりつなぎ留めてくれる碇 (いかり) は、 聖書の中に少なくとも 6 つあります。共通性の原則 「自分だけではない」この 6 つの碇のうち、 「頭で理解できる」 3 つの真理は、 コリ ント人への手紙第一 10 章 13 節にあります。 最初の部分はこうです。 「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではあ りません。」 残念なことですが、 英語の 「試練」 (temptation) という単語は、罪の誘惑という意味でのみ使われる傾向にあります。 確かにそれは、 この単語の意味のひとつですが、 それだけにしてしまうなら、 このみことばの教えを著しく狭めてしまいます。 この「試練」 (temptation) という単語は、 興味深いことに、 ヤコ ブの手紙 1 章 2 節の 「試練」 (trial) と同じ語群の中にあります。 「私の兄弟たち。 さまざまな試練に会うときは、 それをこの上もな い喜びと思いなさい。」

   つまり、 コリント人への手紙第一 10 章 13 節は、「あなたがた の会った困難は、 みな人の知らないものではありません」 と読むことができます。 ここから、困難に直面した際によりどころとなる、 第一の原則を導き出すことができます。 それは、「自分だけではない」 ということ、 すなわち共通性の原則です。

   その種の問題に遭遇したのは、 あなたひとりではありません。 これは確かです。 神が人類の歴史の中からあなたひとりをお選びになって、 このような状況を体験させられているわけではありません。 あなたの前にも後にも、 あなたのような人がいます。「同病相憐れむ」 と言いますが、 実は、悲しむ者には友が必要です。 それは、 ひどい孤独感から私たちを守り、 同じ苦しみと戦った人たちを捜し出す力をくれ、 その苦しみに未だ遭遇して いない人たちを助けるために役立ちます。 現代の日本の教会は、 昔にはなかった恵みがあります。 そのひとつは、 良質のキリスト教書籍が豊富にあることです。 今日、 キリスト教書店は、 苦しみ を体験した人々の良い証を見つけることができます。 それは、 苦 難を忍んだ英雄たちの伝記、突然の悲劇、 虐待、 家庭崩壊、 失望など、 色々な問題を具体的に取り扱った文書です。

 あなたが今、 試練の中にあるならば、 同じような苦しみを通って恵みを知り、 成長し、 栄光を見るに至った人を見つけることが できるはずです。 支えてもらったり、 洞察を与えてくれる人たちとつながることは、 大変役に立ちます。 最後まで戦い抜いて、 勝 利を収めた英雄たちを捜してください。 あなたの苦しみは、 あなたひとりのものではありません。 神は、 ご自身の恵みとあなたの成長を、 みこころのときにひとつにされ、 「私も同じ経験をしました。 私にできることはありますか?」 という声かけを待っている人 のために用いられます。 こうしてあなたは 「共通性の原則」 とい う真理を実現させるのです。 牧師としての大きな葛藤は、ひどい 苦しみの中にある方々のそばに立つことでした。 軽々しく 「お気持ちは分かります」 と言うべきではないことを、 私は早くに学びました。 私には分からないからです。 経験がないのですから。 ところが、 現にそういう経験のある人がそこに現れて、 苦しんでいる 聖徒の肩に手を置き、 「分かりますよ。 話しましょう」 と言うことが あるのです。

   許容範囲内の原則 「耐えられるからこそ」ふたつ目の現実は、 許容範囲内の原則という真理です。 コリ ント人への手紙第一 10 章 13 節は、「神は真実な方ですから、 あなたがたを、 耐えられないほどの試練に会わせるようなことはなさいません」と続きます。 ここに、 耐えられない試練は与えられないことが保証されています。 小川に架かる橋の手前に 「重量制限 5 トン」 という標識があるようなものです。 神は、 私たち の 「重量制限」をご存じですから、 私たちの荷を制限されます。私が以前に住んでいた州には、 ビンの回収条例がありました。 空きビン 1 本を返却すると 10 セントになりました。 しかし、 度々返却に行くのは面倒です。 というわけで、 空きビンがガレージに 山積みとなり、 これ以上放っておけなくなってきました。 ある日の夕方、 ついにスーパーへ持って行くことにしました。 すると、 就 学前だった息子のマシューがガレージまでついて来て、 立派なことに 「パパ、 ぼくが手伝うよ」 と言ったのです。 (幼くて助けに ならない時には手伝いたがり、 頼りになる年頃になると手伝いに興味を示さない。 子どもはなぜそうなのでしょう。) 私は 「じゃあ 頼んだよ」 と答えました。 彼は、ビンの入った箱をふたつ抱えて、 苦労して車に入れました。

   ふたりしてスーパーに出かけました。 私はカートを持って来てビンを山積みにし、 腕にも少し抱えて歩きました。 マシューはビンをふた箱抱えていましたが、 駐車場を半分横切ったところでそれを地面に降ろし、 私を見上げてつらそうに言ったのです。 「パパ。 無理だよ。 重すぎて。」 それに答えて私が、 「いいかい、 マ シュー。 君が言い出したんだから、 元気を出してきちんとやるんだ。 ビンを持ち上げろ。 5 つ数える間に」 と言ったと思いますか。 言うわけありません。 父親ですから、 息子の限界は分かります。 私はマシューの箱を拾い上げて、 カートに乗せました。 さて、 罪人である私が自分の息子にこうするのなら、 私をよくご存じの天の御父は、 私に耐えられないような荷を負わせられるでしょうか。 答えは言うまでもありません。 神があなたの人生に許される苦難 は、 あなたにとって耐えられるものなのです。

   これには耐えられそうもない、 と思うことがないわけではありません。 しかし、 私たちのことを私たち以上に知り尽くしておられる 神が許されたのなら、 その問題は、 私たちの許容範囲を超えていないはずです。 この保証の中には、 私たちは曲げられることはあるが壊されることがない、という約束も含まれています。 私た ちの人生がもろくも崩れてしまうのは、 私たちが試練に対して不適切な応答をするからです。 自分の不適切な応答によって、 敵 意や恨みなどという荷を自ら追加してしまうからです。 この原則に は、見逃してはならない重要な点があります。 神は長いこと 「私」のためには何もしてくださらない、 と感じる時が、 誰にでもあります。 神は他の人のためには色々されているのに、 私の人生には 超自然的なことがほとんど起こらないと。 私たちはふてくされて、 神はどこかで働いておられるだろうが、 「私の人生には働かれな い」と思ってしまいます。

   しかし改めて考えれば、 もし、 神が罪から贖う以外には何もしてくださらなかったとしても、 私は神から身に余るものを受けてい ます。 罪の贖いだけでも、 残りの人生を神の栄光のためにささげる十分な理由です。 けれども、 神はそれ以上のことをなさっています。 私という存在の門番として毎日、 すべてを計り、 私の許容 範囲を超えるものが入り込まないように、 未然に削除しておられます。 私の知らないうちにです。 時々、 私は床に就く時に、 私 の知らない間に神がしてくださったことを感謝することがあります。 何も感謝することがないと思ったら、 あなたの問題が耐えられるも のであること、 そして致命傷になるものから神があなたを守ってく ださっていることを感謝してください。(次回に続く)

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 4月14日(木)21時26分に起きた熊本地震は、私たちの教会の祈り会が終わった直後に発生しました。夜であったので、被害の状況はあまりわかりませんでしたが、夜が明け、日が経つにつれ被害の大きさに衝撃を受けています。これは、熊本では、100年に一度という大きなもので、神戸の地震とほぼ同じ規模だそうです。

   5年前の東日本大震災の直後に、T牧師の案内でいわき市の海岸を訪れた時、その光景には、涙する以外に何もできませんでした。T牧師と涙しながら祈りました。

   熊本といえば、私の親友の一人であった牧師の生まれ育った町です。彼は、高専でラグビーの名選手で、非常に健康な人でしたが、数年前、ガンで天に召されました。彼は、50歳代後半でした。彼の生き方は、まさに、キリストに忠実に従い通した人生でした。私がアメリカの神学校で何度もくじけて、神学校を辞めそうになった時、彼は、いつも励ましてくれました。卒業アルバムには、彼の自筆で、"II Cor. 12:9" Kim Namba、と書いてあります。

   それは、新約聖書の第2コリント12章9節です。"But he said to me, “My grace is sufficient for you, for my power is made perfect in weakness.” Therefore I will boast all the more gladly of my weaknesses, so that the power of Christ may rest upon me. " (EVS)

12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

   どんな試練、苦しみが襲っても、わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」この約束をしっかりと確信して生涯を全うしたいです。

   熊本の人々のために祈るのは当然ですが、行動において何かすることもとても大切です。

Prayingman

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