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2016年4月19日 (火)

嵐のときにも (4/4)

2016.4.19. 嵐のときにも(4/4)   ヽ(´▽`)/

Harris1

良いものをもたらす目的

手術を受けたことのある人は少なくないでしょう。 手術をするとなると、 予定の変更を余儀なくさせられ、 とにかく面倒です。 また、 痛く、不快で、恐ろしくもあります。 それでも私たちは、医師の指示に従います。 その理由は、 痛みには見返りがある、 良い結果になる、 という約束があるからです。 すべての痛みは神の目的を達成する過程だ、 と聖書が告げます。 また、 神の目的は、 必ず良いものをもたらすと保証しています。

「神を愛する人々、 すなわち、 神のご計画に従って召された 人々のためには、 神がすべてのことを働かせて益としてくださる ことを、 私たちは知っています。 なぜなら、 神は、 あらかじめ知っておられる人々を、 御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められ たからです。 それは、 御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです」 ( ローマ 8 : 28-29)。 このみことばは、 3 つの真 理を保証しています。 私たちは困難の中にあるとき、これらによって自らを防衛することができます。

知っていることに留まりましょう

困難に見舞われた人は、あらゆる感情に襲われます。 絶望感、 痛み、 復讐心、 自己憐憫、 怒り、 悲しみ、 その他にも色々ある でしょう。 注意していないと、 それらの感情に支配されて、 知性から引き離されていきます。理屈では分かっていても、感情によって思考が脱線し、信じて従うと決めたことからそれていきます。「感じている」 ことが、 「知っている」 ことをゆがめていきます。

辛いときに頼りにすべきは、 感情ではなく知識です。 ローマ人 への手紙 8 章 28 節には、「私たちは知っています」 とありますが、 それは文字どおり、 絶対不変の知識を持っている、 という意味で す。 痛みの中にいる私たちの知識は、 「たぶん」 とか 「であればいい」 ではなく 「疑いなく知っている」 という現実です。 感情が砂なら、 知識は岩です。

聖書の中で困難に関する個所はすべて、 私たちの知識に訴えかける内容です。 「そればかりではなく、 患難さえも喜んでいます。 それは、 患難が忍耐を生み出し、 忍耐が練られた品性を生み出し、 練られた品性が希望を生み出すと知っているからで す」 (ローマ5:3-4)。 すでに見たヤコブの手紙1章2~4節 にもありました。 「さまざまな試練に会うときは、 それをこの上もない喜びと思いなさい。 信仰が試されると忍耐が生じるということを、 あなたがたは知っているからです。 その忍耐を完全に働かせなさい。 そうすれば、 あなたがたは、 何一つ欠けたところのない、 成長を遂げた、 完全な者となります。」 私たちの見方が感情に支 配されてゆがんだとしても、 神の真理は変わりません。 私たちがどう感じたとしても、 真理は真理です。

神の真理は、 苦しい時に頼れる活力です。 私たちが知っている真理は何でしょう。 私たちは、 患難が品性を練ること (ローマ 5 : 3-5) を知っています。 また、 試練は有用な人間を作ること (ヤコブ 1 : 2-5) も知っています。 ローマ人への手紙 8 章 28 節から、 痛みの目的は最終的に良い結果を生むことだとも知っています。 これを知ること、 この事実にすがりつくことが大事です。 真理は困難の中にあっても、 安定を作り出してく れます。

友人が、 ひどいうつ状態に何ヶ月間も苦しめられました。 病状をどうすることもできなかったそうです。 その間、 彼女を支えたものはただひとつ、 「天国は現実だ」 という真理だったそうです。 この基本的な知識のおかげで、 彼女は、 絶望という感情の渦にのみ込まれずにすんだのです。 2 か月前に子どもを亡くしたばかりの別の友人は、 声を詰まらせながら言いました。 「今、 子ども が死んだ直後よりも苦しいのです。 私に分かっていることは、 神 さまは全知であり主権者だということだけです。」 これは初歩的な知識です。 けれども、 彼を十分に支えています。 私たちは神の民なので、 痛みの中にいても真理がある、 という強みがあります。 これは困難の中にあって、 紛れも無く有利な立場です。 真理にしがみつきましょう。

痛みはプロセスです

ローマ人への手紙 8 章 28 節は、 痛みはプロセスであること、 さらに、 最終的に良いものに至ることを教えてくれます。 痛みを 受け入れる基本原理は、 神にとって、 私たちは開発途上だという認識です。 神から見て完成された人はいません。 神は、 私たちをありのままで愛し、 受け入れてくださいますが、 神がご覧に なっているのは、 私たちの可能性であり未来像です。 私たちは、 楽しいと 「これで良い」 と自分に満足しますが、 痛むときは神に目を向けます。 神は痛みを用いて、 ご自分が望むように私たち を成長させられるのです。 このプロセスには、 3 つの側面があり ます。

すべてを含むプロセス

神は 「すべてのことを」 働かせてくださるのですから、 神の許されることは、痛みであれ楽しみであれ、悩みであれ祝福であれ、 すべてを、私たちを変えるために用いられます。 かっこいい車は、 魅力的です。 この車が、 美しさと有用性を持ち合わせるために は、一連のプロセスが必要です。 美しい車のデザインは、曲げる、 たたく、 型を作る、 熱する、 リベットで留める、 ヒューズを付ける、 締めるなどの過程 (プロセス) を経て出来上がります。 組み立 てラインの前進は、 認知できないほど微小なので、 そのプロセス はゆっくりです。 しかし、 目指すゴールは明らかです。 また、 プロセスは具体的です。 無数の部品が全体を成り立たせています。 不恰好で強い圧力を加えられるものがある一方で、 美しくされていくものもあります。 ひとつひとつは、 欠かすことのできないプロ セスなのです。

痛みがプロセスの一部であることは、 みことばの文脈から分かります (ローマ 8 : 18、 23、 26 節)。 痛み無しに変えて欲しいと願うのは、 まるで鋼鉄の固まりが、 組み立て工程を経ることなく 美しい車に変わるように願うようなものです。 ローマ人への手紙 8 章 28 節は 「神がすべてのことを働かせ」 と語ります。 これは、 現在も継続しているプロセスです。 私たち には神の目的があります。 神は、 目的を反故 (ほご) にしたり、 プロセスを中断したりされません。 私の家の物置には、 やりかけ て置きっ放しにされているものがあります。 修理しようと解体して放ってあるものや、 ニスを塗りかけてそのままのものなどです。 し かし、神は違います。途中で忘れたり放り出したりはなさいません。

 

神が監督するプロセス

ローマ人への手紙 8 章 28 節は 「神がすべてのことを働かせ」 と語ります。 私の人生の物語の背後には、 神の御手があります。 神の御手は動いています。 変化や制限を与えたり、 圧力をかけたり、 力を与えたり、 置き換えをしたりしています。 すべてのことを働かせて益としてくださっているのは、 神ご自身なのです。

1856 年、 彫刻家オーギュスト ・ バルトルディはフランスからエ ジプトに旅立ちました。 彼はピラミッドの壮大さや、 雄大なナイル 川の力強さ、 砂漠の中に堂々と立つスフィンクスの美しさに圧倒され、 芸術家として大きな刺激を受けました。 彼はこのとき、 ひ とりの旅人に会いました。 フェルディナンド ・ レセップスです。 レ セップスは、 紅海から地中海につながる運河を掘るという構想を、 有力者に理解してもらおうとしていました。 運河があれば、 商船はアフリカ大陸の南端まで巡る長旅をしなくてもよいからです。 バ ルトルディは、 レセップスのアイデアに魅せられ、 運河の入り口 に灯台を立てたいと思いました。 しかしそれは、 単なる灯台では ありません。 バルトルディの灯台は、 西欧文明の光が、 東洋をも照らすようになることを象徴する建造物でした。

スエズ運河の建設は 10 年の歳月を要しました。 その間、 バ ルトルディは灯台のデザインに取り組みました。 設計図を描き、 粘土模型をつくり、 何度も改良を重ねました。 そしてついに、 完璧なデザインが出来上がりました。 ところが、 問題がひとつありま した。 建設費です。 手を尽くして探しましたが、 出資者は現れませんでした。 こうして、 スエズ運河は開通しましたが、 灯台はできませんでした。 傷心のバルトルディはフランスに帰国しました。 10 年間の努力は水泡に帰したのです。

バルトルディの構想は、 素晴らしいものでした。 それは、 砂漠 のスフィンクスよりも高い巨大な彫像です。 ローブを身にまとった 婦人が、 正義の書物を片手に持ち、 もう一方の手で灯を高く掲げ、運河の入り口を照らすというものです。バルトルディは帰国後、 アメリカに贈る芸術作品のために力を貸して欲しいと、 フランス政府に依頼されました。 これが、 ニューヨーク港を照らす 「自由の女神」 の彫像となりました。 これは、 失望に終わった出来事が、 想像以上に良いことが起こる前ぶれにもなり得る、 という良い例 です。

困難、 敗北、 失意が、 意義ある偉大なことに続いてゆく可能 性がある、 というのが世の常だとするならば、 このプロセスを知恵 と力に満ちた神の御手に委ねるとき、 その結果はどれほど確かに保証されることでしょう。 しかし、 私たちは無責任な運命論に陥らないよう注意すべきです。 無責任な運命論とは、 すべての困難の原因が神にあるとする考え方です。 ローマ人への手紙 8 章 28 節の 「すべてのこと」 の中には、 人間の選択と選択の結果としての現実も含まれます。

イーデス ・ シェーファー著 「苦しみについて」 の中には、 崖から落ちて死んだ子どもや、 薄氷の張った池に落ちた子どもの話が出てきます。 その子どもを崖から落としたのは神でしょうか。 氷の割れ目から池に落としたのも神でしょうか。 そうではありませ ん。 私たちは堕落した世に生き、堕落した人類に属しているので、 これらの悲劇が起こるのです。 崖に近づいたのは人間の選択であり、 氷の安全性を確かめなかったのも人間の選択です。 その結果、 悲劇が起こりました。 けれども、 神の創造力に富んだ強い御手は、 これらすべてを働かせて益としてくださるのです。

人生はジグソーパズルに似ています。 私たちの人生は、 テー ブルの上に乗っている、いくつものパズルのピースです。 それは、 ごちゃごちゃしています。 方向性も論理性もなく、 悲劇的です。 しかし、 私たちは分かっています。 神が来てくださって、 みこころのときに、 みこころの方法で、 賢く注意深くピースをはめ込ん でくださいます。 そしてついに、 道理にかなった美しい作品が出来上がります。 「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、 キリスト ・ イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを 私は堅く信じているのです」 とパウロが語ったとおりです (ピリピ 1章6節)。

痛みは目的をもったプロセスです

3 番目の原則は、 神にとって目的のないプロセスはないということです。 ローマ人への手紙 8 章 28 節には、 神が私たちのた めにすべてのことを働かせて益 (英語では 「良いこと」) としてく ださるとあります。 これが神の目的です。 クリスチャンにとって、「良 い結果」 という目的のない痛みはありません。

あるとき教会で 「神さまが息子さんを守ってくださいましたね。 神は本当に良いお方です」と、ある夫婦に話しかけました。 前夜、 彼らの息子は交通事故に遭って、 緊急手術のできる遠くの病院に運ばれました。 一時は危篤状態でしたが、 一命を取り留めた のです。 しかし隣には、 数年前に娘を交通事故で失った夫婦が 立っていました。 私はハッとしました。 「神さまはこの人たちにとっ ても、良いお方なのではないのだろうか。 私はどういう定義で 『良 い』 という言葉を使っているのだろう。 娘さんを亡くされたご夫婦 は、 私の言葉を聞いてどう思ったのだろう?」

神はローマ人への手紙 8 章 29 節で、 「良いこと」 (日本語で は 「益」) を定義してくださいました。 ここでは、 神の目的のた めに召された人々のために、 ひとつのプロセスがあると言われて います。 では、 神の目的とは何でしょう。 それは 29 節によれば、 御子のかたちと同じ姿になることです。 これこそが「益」なのです。 キリストの品性をますますはっきり反映させるものが、 私たちの人 生の内に、 または、 人生を通してあるなら、 それが 「良いこと」 です。 痛みであれ喜びであれ、 その体験が、 私たちをキリストに似せていくなら、 それは 「良いこと」 です。 それが、 痛みのプ ロセスにおける神の目的です。 すべての出来事は、 神の許可があって起こりました。 神はこれらすべてを用いて、 キリストを反映させるものへと私たちを変えていかれます。

家族でセミナーに参加していたとき、 末息子のマシューが手首を骨折しました。 私はあのような手を見たことはありません。 腕が手首のところで左に鋭角に曲がり、 再び反対に曲がって手の ひらになっていました。 目を背けたくなる、 気持ちの悪い姿でした。 急いで病院に駆け込みました。 医者が息子の手を引っ張って、額に汗を浮かべながらねじりました。 息子の痛がる姿を見て、 私は医者につかみかかって、 息子から引き離してやりたいという 衝動にかられました。 しかし、 見守るしかありません。 マシュー の腕は本来のかたちに回復されなくてはなりません。そのために、 彼は数週間、 痛みと不便を忍ばねばなりませんでした。

私たちは、 罪によって傷つき壊れています。 神は良いお方で す。 神は愛です。 そんな神が、 私たちを回復させなければなりません。 当初のご計画のとおり、 御子のかたちに回復させるのです。 あわれみと義、 そして愛の心を回復させなければなりま せん。 元来のご計画のとおり、 ご自分の栄光をあらわすために、 神は、私たちを作り変えなければなりません。 神は、私たちを 「良いもの」 に変える計画をお持ちであるだけではありません。 その 計画を完成する力も持っておられます。

預言者イザヤは、 神は 「すべての悲しむ者を慰め、 シオンの悲しむ者たちに、 灰の代わりに頭の飾りを、 悲しみの代わりに喜びの油を、 憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためで ある。 彼らは、 義の樫の木、 栄光を現す主の植木と呼ばれよう」 と語りました (イザヤ 61 : 2-3)。 また、 神はいなごが食い尽くした年を償うことができます (ヨエル 2 : 25)。

ミケランジェロは、 石のかたまりから 「ダビデ像」 を彫り出しました。 キャンバスに絵の具で傑作を描いた画家たちがいます。 最近は、 鉄の棒を曲げて溶接した不思議なモニュメントも広場 に展示されているでしょう。 しかし私は、 灰から芸術作品を生み 出した人を見たことがありません。 それができるのは神だけです (イザヤ 61 : 3)。

神は人生にキリストの愛をくださいます。 そのために、 痛みの体験が必要なのかもしれません。 他の人のニーズに敏感になるために、 何らかの必要を覚える辛い日々を、 私たちは通されるのかもしれません。 それに伴って痛むというのなら、 それは 「良いこと」です。 私たちは泣く者とともに泣けるでしょうか。 キリストのように純粋に同情するようになるために、 私たちには涙を流す体験が必要なのかもしれません。 自分のことは自分でできると思っていませんか。 豊かな社会の悲劇は、 神が必要だとほとんど感じられないことです。 ところが実際、 私たちは、 どうしようもないほど神が必要なのです。 私たちの安定は、 多少は覆される かもしれません。 キリストのように神に頼って生きるようになるためにです。 とすれば、 たとえ痛みを伴ったとしても、 それは 「良いこと」 です。

私たちは、 神に忠実でしょうか。 悲劇が起こって衝撃を受けるかもしれません。 神が生きて働くお方であることを体験し、 キリス トのように神を信頼して歩むことを学ぶためです。 とすれば、 そ れは 「良いこと」 です。私たちは、 プライドが高く、 他人に無関心で、 性的好奇心が強く、 わがままで恨み深く、 否定的で怒りっぽくはないでしょうか。 神は、 御子イエスという模範を与え、 このお方のように生きなさいと語っておられます。

神は、 私たちの中に良い変化を起こすことができます。 何が最善であり、 そのために何が必要かをご存じです。 神は愛に溢れた力強い彫刻家です。 キリストの姿が見えるまで、 私たちのカチカチの部分を削り取ってくださいます。 神を知る人たちにとって、 痛みは、 ある目的のために通らねばならないプロセスです。 私たちは、 辛いときを何とかやり過ご していくのではありません。 麗しいキリストのように作り変えていた だくために、 困難の中を通らせていただきます。 そして、 それは 「良いこと」 です。 (RBC Ministries)  (* ̄ー ̄*)

Sarawakriver

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