グレース・バプテスト神学校

グレース・バプテスト神学校 (略称 GBBS=Grace Baptist Bible School)のブログです。

269_2        さいたま市岩槻区にある単立バプテストの神学校です。全日本バプテスト・ミド・ミッション宣教師団 (略称BMMJ)によって運営されています。この神学校の目的は、「献身者と一般の信徒が聖書を知り、キリストに似る者とされ、聖書に従って奉仕するように神学生を訓練し、地域教会を力づけること」です。1981年に始まり、今年で34年目を迎えました。第1期から一番新しい卒業生たちまで、彼らは、海外と国内の宣教活動を忠実に行っております。
  神学校の聖書箇所は、ペテロ第一の手紙3章18節です。「私たちの主であり救い主Bible_school_3 であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。」   現神学生、全ての卒業生、全教師も生涯、み言葉を学び続け、  キリストに似る者として成長するようにと、この箇所を選びました。
  1960年代初頭から先輩たちが忍耐を持って蒔かれた福音の種2_timothy_2_gods_word_2 が成長し、日本全土にリバイバル(信仰復興)が起こることを熱く祈っております。日本のすでにある教Logo_2 会に後継者が与えられるためにも、もっと多くの献身者が必要です。今日まで、当神学校のために忠実に祈り、経済的に支え続けてくださっている地域教会の先生方、会員の皆様と、全ての主権と摂理をもって導いておられる活ける真の神、イエス・キリスト様に心より感謝しています。神様だけに栄光がありますように。
 
 
 

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嘆き(なげき)の壁、エルサレム



 
  教会の住所は、さいたま市岩槻区宮町2丁目13−5です。神学校は、ベテル・バプテスト教会の2階の一部屋で、月曜日から金曜日まで、クラスが持たれています。Y兄、M兄、K兄は、忠実に学び、奉仕をしています。卒業までお祈りをお願いいたします。
 
 שָׁלוֹם εἰρήνη
 
*当神学校は、モルモン教、エホバの証人、統一教会などの新興宗教とは、いっさい関係ありません。

2019年2月17日 (日)

耐えられないような試練はない

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1コリント10:13

「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。


神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練


に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできる


ように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」

み心のままにゆだねよう  すべてを知る神に

みわざははかりしられず  おどろくこともあろう

ときには やむをえず  深いおぼしめしから

きびしいこころみに  あわせたもうこともある

 

しかも なぐさめとて  しばしはさずけたまわず

もはやうち捨てられ  かえりみられぬものと

苦しみなやみに  胸はおののくばかり

 

されど つねにおそれず  みもとにとどまれ

思いもよらぬときに  すくいはおとずれ

心はつらい重荷から  ときはなたれるだろう

このうえない耐えがたい  その重荷から

J.S.







2019年2月16日 (土)

神はかぎを持っておられる

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ヘブル書10章35-36節

「10:35ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。

10:36 あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」

あなたの生活に解決すべき問題はあるか

あなたの生活に理解できないことはは沢山あるか

隠れている事をすべて明るみに出される神は

すべてをご存知であり かぎを握っておられる

父なる神の御手によって 閉ざされた戸があるだろうか

あなたは、それが広く開かれるのを望んでいただろうか

神に信頼し、神を待ち望め なぜなら 神が戸を閉ざされるとき

そのかぎを持っておられるのは神のみである

まだ 答えられない熱心な祈りがあるだろうか

あるいは、あなたの期待するように 答えられなかった祈りがあるだろうか

神はやがて ご自分の目的をかならず明らかにされる

神はかぎを持っておられる

だから あなたの神を忍耐強く待ち望め

神が一つ一つの戸のかぎを 持っておられるということを知ることは

尽きない慰めとすばらしい祝福に満ちた安息を与える

神は、最もよいと見られるときに あなたにそのかぎを与えられる

(Author  Unknown)

信仰を与えてください

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主よ 信仰を与えてください

日々心を静かにして時を過ごし

小さな仕事にも心を込め

すべてを主の御手にゆだね

あなたの道を歩めるようにしてください

主よ 信仰を与えてください

知ることができなくても ただあなたを信頼し

心を静め すべてにあなたを認め

幼子のような信仰により

行くべき道を行かせてください

主よ 信仰を与えてください

すべてを御手におゆだねし

未来のすべてをあなたの賜物と信じ

未来のベールを切り開かなくても

あなたのご愛を信じ歩めるようにしてください

J. Oksenam

2019年1月31日 (木)

どこへでも

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イエスさまがともにいてくだされば

安らかにいけるでしょう。

どこにいてもこの世において

イエスさまはわたしを導かれます。

どこにいてもイエスさまがおられなければ

あふれる喜びも消え失せるでしょう。

どこにいてもイエスさまがともにいてくだされば

わたしにには恐る事はありません。


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どこにいてもイエスさまがいてくだされば

わたしはひとりではないのです。

たとえ友が背を向けてしまっても

イエスさまはわたしのベストフレンドです。

変わる事はありません。

イエスさまの御手が荒れはてた道に、わたしを連れて行っても


イエスさまがともにいてくだされば

どこでもそれは賛美の家です。

(Author Unknown)

神学校ミニ・ニュース

 いよいよ明日、金曜日から最終学年の最終学期が始まります。どうぞ、神学生の学びを祈りで支えてください。

ユダヤ人を救った人々⑤

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ユゼフ・ウルマ(Józef Ulma)とヴィクトリア・ウルマ(Wiktoria Ulma)はマルコヴァという村(ポドカルパツキエ県)の住民だった。

1942年、ドイツの占領下で自らの命の危険も顧みずウルマ家は8名のユダヤ人に対し住処を提供した。ユゼフとかくまっていたユダヤ人のうち男性は、皮なめしの仕事をしていた。

1944年3月24日の朝、彼らはドイツ兵により殺害された。はじめにユダヤ人が、次にユゼフとヴィクトリア(当時妊娠9ヶ月であった)、そして8歳から1歳半までの6人のウルマ家の子どもたちも殺された。

1995年、彼らの死後ではあったが「諸国民の中の正義の人」として認定される。2010年には当時のポーランド共和国大統領レフ・カチンスキがポーランド復興勲章も与えた。

ドイツ占領下のポーランドにおいては、ユダヤ人を救う動きは、見つかれば死刑に処されるという大変な勇気と決意を伴うことであった。

2018年3月24日はウルマ家と彼らのもとで暮らしていたユダヤ人が殺害されてから74年が経った日であり、ポーランドでは初めて、ドイツ占領下でユダヤ人を救ったポーランド人の国家記念日として取り上げられた。(Insytut)



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2019年1月29日 (火)

多くのユダヤ人の命を救った日本人外交官、杉原 千畝



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◆ ビザを求めるユダヤ人難民

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▲1939年ころのヨーロッパ

 1940年7月18日、リトアニアの首都カウナスにある日本領事館は朝早くからたくさんの人たちが取り囲んでいた。彼らはナチス・ドイツから逃れるために、隣国ポーランドからお年寄りや子どもの手を引きながら、夜を徹して歩いて来たユダヤ人難民の家族の人たちである。みんな日本通過ビザの発給を求めて命がけでこの領事館にやって来た。

 当時、ヨーロッパではドイツがオーストリア、チェコ、ポーランドを侵略、さらにオランダやベルギー、デンマーク、ノルウェー、フランスに侵攻して、その戦火はヨーロッパ全土に拡がりをみせようとしていた。ユダヤ人の根絶政策を掲げるナチスの手から逃れるためには、今や、ポーランドのユダヤ人に残された避難ルートは、シベリアを経由して日本へ渡り、そこからアメリカやパレスチナなどへ渡るほかに道は残されていなかった。

◆ 命令に背いた決断

 「日本の通過ビザ」を求めて必死になって懇願するユダヤ人難民を目の前にして、領事代理(実質上は領事)の杉原千畝は苦悩していた。

◆領事館に集まった多くのユダヤ人

 日本の外務省はビザ発給の条件を、「行き先国の入国許可手続を完了し、旅費及び本邦滞在費等の相当の携帯金を有する者に発給する」としていたため、避難民のほとんどは受給資格を欠いていた。千畝は緊急のビザ発給許可を外務省に求めtたが、どうしても許可は下りなかった。その背景には、日独伊三国同盟の締結を間近に控えていたことから、むやみにドイツを刺激したくないという国内での政治的事情もあった。

 ユダヤ人難民の人命救助、かたや外交官として本国の指示に従うべきとの判断の狭間に立たされて千畝は迷い、悩んだ。その間にも領事館を取り囲むユダヤ人難民は数を増やしていった。そして七月二五日、ついに自らの心に従った千畝は、職を賭して日本通過ビザの発給を決断した。「私は人間として、この人たちを見はなすことはできない」と。

 なお、無謀とも思えるこの決断にあたっては、日本へ上陸できさえすればこの人々は助かるだろうとの確信のもと、千畝はソビエト総領事館に交渉してユダヤ人難民がソ連国内を通過できるよう認めてもらった。

◆ 「命のビザ」の発給

 7月29日、その日も朝早くから集まって来たユダヤ人難民を前に、千畝は「みなさんがたに、日本の通過ビザを発給することになった」と大きな声で知らされた。すると一瞬、その場の時間が止まったかのような静寂の後、大きなどよめきと歓声が千畝を包まれた。でもそれは、大変過酷な仕事への始まりでもあった。

 すでに3000人を超すユダヤ人たちが通過ビザの発給を待っていたが、1時間に10人分をこなすのが限界であった。1人でも多くの人を救いたい。その思いから、千畝は1日に300枚を目標に、食事や寝る間も惜しんで、ビザを書き続けた。しかし、ビザ用紙もそんなにたくさんは置いてはいなかったため、なくなってからは全て手書きとなり、予想以上に手間がかかる作業となった。

 そんな作業が20日以上続いた頃には、どんなに気力をふり絞っても、体力はすでに限界となっていた。しかも8月3日、リトアニアはソ連に併合され、ソ連から領事館の閉鎖が通告され、日本の外務省からも至急ドイツの大使館へ移るよう、再々の退去命令が千畝の元へ届いた。リトアニア滞在が限界となった9月5日、ついに杉原家はベルリンに向け出発しtた。駅には、たくさんのユダヤ人が来ていた。汽車が動きだすまでの短い時間を使って、そこでも千畝は通過ビザに代わる渡航証明書を書いて手渡した。

 こうして発給されたビザの記録リストには、名前が残っているものだけでも2000人を超えた。1家族で1枚のビザでよかったため、記録から漏れている人を合わせると、少なくとも6000人とも8000人ともいわれるユダヤ人の脱出を助けたことになった。

◆ 苦難の帰国と転機

 その後、千畝は家族と共にチェコ総領事館、東プロイセン総領事館、ルーマニア公使館に赴任して終戦を迎えた。戦後1年半近くまでブカレスト郊外の兵営に収監された後、シベリア鉄道を経て1947年4月にようやく博多港にたどりついた。

 何とか無事に帰国ができて外務省に復帰したのもつかの間、6月には省内のリストラを理由として退職に追い込まれた。退職の理由について本人は多くを語らなかったが、ビザ発給による命令違反の責任を負わされたとの説がある。外務省を退職した千畝は、得意の語学を活かして進駐軍やNHK、貿易商社など勤務を転々とした。そしてリトアニアでの出来事のすべてが忘れ去られようとしていた1968年、東京のイスラエル大使館からの突然の電話が千畝の心のわだかまりを解かしていくことになった。

◆ みんな忘れない(千畝が発行したビザ)

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 おもむいたイスラエル大使館で、参事官が千畝に1枚の古びて黄ばんだ紙切れを見せた。驚くことに、それは千畝がカウナスで発給したビザの1枚だった。彼はこのビザによって命を救われた1人であった。そして、イスラエルでは助かった何千という人が、今もこのビザを宝物として大事に持っている。なお、再会に28年間もかかったのは、千畝が外国人に発音しやすいよう、自分で「センポ」と名乗っていた理由も一因であった。長い月日が過ぎて時代は変わっても、助けられたユダヤ人達は、ずっと千畝のことを忘れなかった。(JKNet)

多くのユダヤ人を救った人④

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  タデウシュ・ロメル(Tadeusz Romer・1894-1978)は、1937~41年(39年かRomer らポーランドは亡命政府)に赴任していた初めての駐日ポーランド大使。1942年から43年はソビエト連邦で大使を務め、1944年11月からは亡命政府スタニスワフ・ミコワイチク内閣の外務大臣であった。

 1920年代は外務省員として、パリ、ローマ、リスボンで外交官としての仕事に従事。駐日ポーランド共和国大使となったのは国際関係に緊張が走り、戦争の雰囲気が増していた時期で、第二次世界大戦勃発後も東京にあったポーランド大使館は亡命政府の代表として役目を果たしていた。

 当時、日本には東ヨーロッパからの避難民の波が押し寄せていた。1940年8月から41年の間、日本に辿り着いたのは2185名、そのうちの多くはユダヤ人、特にリトアニアのヴィリニュスとカウナスからの人が多かった。彼らの大部分はウラジオストク経由でオランダの架空のビザもしくは日本の通過ビザ(トランジット・ビザ)を持っており、これはポーランド側と協力をした在カウナス日本国領事 杉原千畝が発行したものだった。

 1940年10月、ロメル大使は東京に戦争難民救済委員会を設置、これを指揮したのは大使夫人のゾフィア・ロメルであった。委員会役員は敦賀港(乗り換え地点)に待機し、そこから神戸、横浜、東京へ向かって次なる助けの手の元へユダヤ人を送る手助けや、パスポートやビザの手配等を行った。

 1941年10月、日本とポーランドの国交断絶を受け、大使館員は上海へと移動することとなった。上海でも救済委員会は活動を継続し、「上海記帳(仮訳。原語:Księga Szanghajska)」に救出した人々の名簿を記録した。

 

1945年からロメル夫妻は移民となり、最初にロンドン、次にカナダへ移住。タデウシュ・ロメルはカナダのモントリオールでマックギル大学の教壇に立ち、1963~78年にはポーランド科学研究所の所長を務めた。(Insytut)

2019年1月26日 (土)

多くのユダヤ人を救った人③

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 イレナ・センドレル(旧姓クシジャノフスカ)は、1910年にワルシャワDaee55xuwaewoqq 近郊のオトフォツクで生まれた。父は医師。第二次世界大戦でナチス・ドイツの占領が始まると、彼女は抵抗運動に加わり、ワルシャワ・ゲットーが作られる前から、ユダヤ系の同胞を援助する活動を行っていた。

 ダヴィデの星の腕章をつけ、女性同志たちとゲットーに出入りし住民を看護。救出した子どもについては、身分証を偽装して持たせながらも、将来彼ら自身が自分は何者で親は誰なのかが分かるよう、本名との対応リストを作り、ビンに詰めて埋めるなどした。

 1942年にポーランドの地下組織「ユダヤ人救済委員会【ジェゴタŻegota】」が結成されると、コードネームを「Jolanta」とし、子ども救済部長となった。1943年10月、密告を受けたゲシュタポにより逮捕、パヴィアク刑務所女性等に収容される。ジェゴタは高額の賄賂を払い、イレナを救出。釈放後も「クララ・ドンブロフスカ」の偽造身分証により活動継続。

 1954年以降は医療・福祉関係の複数の学校で副校長を務め、63年に初めて対戦中のユダヤ人救出活動について文章を公表した。1965年にイスラエルのヤド・ヴァシェム研究所により、「諸民族の中の正義の人」メダルを授与される。

 2003年には、ポーランド共和国最高位の「白鷲勲章」を授かる。2007年には、子どもたちの請願により、微笑み勲章を受ける。2006年には、レフ・カチンスキ大統領が、彼女をノーベル平和賞候補として推薦。イレナ・センドレルは2008年5月12日に死去。亡くなるまで、「自分にはもっと多くのことができたはずだったのに」と言っていた。

2017年6月、ポーランド共和国下院は、2018年を「イレナ・センドレル記念年」とする決議を行った。「一人の人間を救済するために、全てを捧げた女性を讃えて」(insytut)

ポーランドで多くのユダヤ人を救った人②

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 ヴィトルド・ピレツキ(Witold Pilecki)は1901年5月13日、当時ロシア帝国にあ20190126_70110 ったオウォニエツという町で生まれる。5人兄弟の次男(長男は5歳で逝去)。1910年にヴィリニュスへ移住、商業学校を卒業。1918年~21年にはポーランド軍に入隊、その後ポズナン大学で農業を学び、美術学校で聴講もしていた。


 1939年9月、ポーランド軍に入り、ポーランド侵攻で戦う。1940年にアウシュヴィッツナチス・ドイツ強制絶滅収容所がつくられた。初期の段階でここに収容されていたのはポーランド軍、ソ連軍の捕虜であった。当時地下組織で活動をしていたピレツキは収容所内の状況を確認・報告するためアウシュビッツに進んで入所、潜入する。この時点での目的は、収容所内に地下組織を作ること。内部情報をワルシャワの司令部に届けること。収容所内の不足物資を外部から調達する一端を担うこと。そして最終的にはロンドンの亡命政府を通じイギリス政府に働きかけ、収容所の解放を求めることであった。ピレツキが作成した報告書(「ヴィトルド報告」)には収容所内の非人間的な様子が綴られていた。この報告の存在が明らかになったのは1990年以降のことであった。



 収容所の脱走に成功したのは1943年4月26日から27日の間。948日間の潜入が終わった後、ピレツキはワルシャワ蜂起に参加。蜂起は鎮圧されるが彼は生き残り逮捕される。その後収容所は解放されるが、ポーランドではソ連が台頭し、反ソ連の運動の中心であった国内軍の一員であったピレツキはまたしても逮捕、度重なる拷問の末、死刑に処され1948年5月25日死刑執行人ピオトル・シミェタンスキにより後頭部を銃で打たれ生涯を閉じた。ピレツキは「呪われた兵士たち」の一人として挙げられる。彼については、2015年に小林公二氏により書籍「アウシュヴィッツを志願した男 ポーランド軍大尉、ヴィトルド・ピレツキは三度死ぬ」が発表されている。(insytut)

私はホロコーストを見た

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ポーランドのユダヤ人強制収容所 


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 ヤン・カルスキ Jan Karski(本名ヤン・ロムアルト・コジェレフスキ)― 1914年4月24日〔ウッチ〕~2000年7月13日〔ワシントン〕

 戦時期のポーランドで、大学の法学部、外務省研修所、士官学校を卒業。大戦勃発後捕虜となるが、首尾よく脱走して、地下活動を始める。抜群な記憶力と諸外国語の知識を有する彼は、ポーランド地下国家の政治密使の義務を託された。

繰り返しフランス行きの特命を帯びた彼ではあったが、ついに、ゲシュタポに逮捕されてしまう。暴力的な尋問を受けた後、さらなる拷問を受ければ、ポーランドの地下運動に関する重要情報をドイツに暴いてしまうかもしれないと怖くなり、自殺を図った。助け出されて、刑務所病院に収容されたが、ポーランド軍事闘争連盟の援助で連れ出された。

 1942年、ヤン・カルスキの名(その後彼は、常にこの名を用いることになる)で、新しい使命を果たすべく、英国と米国に出発した。彼の主要な任務の一つは、連合国軍に、ドイツ占領下におけるユダヤ人の悲劇的な情報を伝えることだった。関連情報を集める途上で、2度にわたってワルシャワ・ゲットーとイズビツァの中継収容所(ユダヤ人はそこから絶滅収容所に移送されていった)に侵入した。

 現場を目撃した者のみが知る戦慄の事実を、多数のアメリカとイギリスの政治家・ジャーナリスト・芸術家に伝えた。英国政府の外務大臣、アメリカ合衆国大統領にも面会した。しかしながら、密使たる彼が行った、ユダヤ民族を救済すべしとのアピールは成果をもたらさなかった――対話を行った相手の多数は、彼の報告を信じないか無視したのだった。

 ヤン・カルスキは、戦後、亡命者として米国に残る決断を下した。大学で政治学を学び、ワシントンにあるジョージタウン大学で博士号を取得した。その後、さらに40年にわたって、母校で国際関係額と共産主義理論の講義を行った。彼の学生の中には、後に大統領となるビル・クリントンがいた。生涯の最後の20年間、ヤン・カルスキは「遂行されなかった特命」に立ち返った。アメリカ、イスラエル、ポーランドの集会で、戦争中のユダヤ民族大量虐殺について、この悲劇に対する全世界の関心をかき立てようとした自らの試みについて、繰り返し物語った。

 ヤン・カルスキは、権威ある賞を数多く受けている――「諸民族のなかの正義の人」の称号、ポーランド内外8つの大学の名誉博士号を授けられ、白鷲勲章(ポーランド最高の国家勲章)を受勲し、イスラエル名誉市民となった。自ら、ヤン・カルスキ&ポラ・ニレンスカ賞を設立した。この賞は毎年、ニューヨークのユダヤ調査研究所とワルシャワのユダヤ歴史研究所によって、ポーランドのユダヤ人の役割とポーランド文化への貢献を扱った刊行物の著者に与えられる。

また、日本では彼の著書「The Story of Secret State」の翻訳「私はホロコーストを見た」が2012年に刊行された。(insytut)

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