グレース・バプテスト神学校

グレース・バプテスト神学校 (略称 GBBS=Grace Baptist Bible School)のブログです。

269_2        さいたま市岩槻区にある単立バプテストの神学校です。全日本バプテスト・ミド・ミッション宣教師団 (略称BMMJ)によって運営されています。この神学校の目的は、「献身者と一般の信徒が聖書を知り、キリストに似る者とされ、聖書に従って奉仕するように神学生を訓練し、地域教会を力づけること」です。1981年に始まり、今年で34年目を迎えました。第1期から一番新しい卒業生たちまで、彼らは、海外と国内の宣教活動を忠実に行っております。
  神学校の聖書箇所は、ペテロ第一の手紙3章18節です。「私たちの主であり救い主Bible_school_3 であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。」   現神学生、全ての卒業生、全教師も生涯、み言葉を学び続け、  キリストに似る者として成長するようにと、この箇所を選びました。
  1960年代初頭から先輩たちが忍耐を持って蒔かれた福音の種2_timothy_2_gods_word_2 が成長し、日本全土にリバイバル(信仰復興)が起こることを熱く祈っております。日本のすでにある教Logo_2 会に後継者が与えられるためにも、もっと多くの献身者が必要です。今日まで、当神学校のために忠実に祈り、経済的に支え続けてくださっている地域教会の先生方、会員の皆様と、全ての主権と摂理をもって導いておられる活ける真の神、イエス・キリスト様に心より感謝しています。神様だけに栄光がありますように。
                                                (神学校のロゴ)
 
 
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  教会の住所は、さいたま市岩槻区宮町2丁目13−5です。神学校は、ベテル・バプテスト教会の2階の一部屋で、月曜日から金曜日まで、クラスが持たれています。Y兄、M兄、K兄の学びのためにお祈りください。
Shalom
 
*当神学校は、モルモン教、エホバの証人、統一教会などの新興宗教とは、いっさい関係ありません。

2017年11月18日 (土)

神がクリスチャンにされる聖化のプロセス

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 ローマ人への手紙 8 章 28 節は 「神がすべてのことを働かせ」 と語ります。 私の人生の背後には、 神の御手があります。 神の御手は動いています。 変化や制限を与えたり、 圧力をかけ たり、 力を与えたり、 置き換えをしたりしています。 すべてのことを働かせて益としてくださっているのは、 神ご自身なのです。

 困難、 敗北、 失意が、 意義ある偉大なことに続いてゆく可能性がある、というのが世の常だとするならば、 このプロセスを知恵と力に満ちた神の御手に委ねるとき、 その結果はどれほど確かに保証されることでしょう。 しかし、 私たちは無責任な運命論に陥らないよう注意すべきです。 無責任な運命論とは、 すべての困難の原因が神にあるとする考え方です。

 ローマ人への手紙8章28節の 「すべてのこと」 の中には、 人間の選択と選択の結果としての現実も含まれます。イーデス ・ シェーファー著 「苦しみについて」 の中には、 崖から落ちて死んだ子どもや、 薄氷の張った池に落ちた子どもの話が出てきます。 その子どもを崖から落としたのは神でしょうか。 氷の割れ目から池に落としたのも神でしょうか。 そうではありませ ん。 私たちは堕落した世に生き、堕落した人類に属しているので、 これらの悲劇が起こるのです。 崖に近づいたのは人間の選択であり、 氷の安全性を確かめなかったのも人間の選択です。 その結果、 悲劇が起こりました。 けれども、神の創造力に富んだ強い御手は、 これらすべてを働かせて益としてくださるのです。

 人生はジグソーパズルに似ています。 私たちの人生は、 テー ブルの上に乗っている、いくつものパズルのピースです。 それは、 ごちゃごちゃしています。 方向性も論理性もなく、 悲劇的です。 しかし、 私たちは分かっています。 神が来てくださって、 みこころのときに、 みこころの方法で、 賢く注意深くピースをはめ込んでくださいます。 そしてついに、 道理にかなった美しい作品が出来上がります。 「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、 キリスト ・ イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです」 とパウロが語ったとおりです (ピリピ 1章6節)。

 神にとって目的のないプロセスはないということです。 ローマ人への手紙8章28節には、 神が私たちのためにすべてのことを働かせて益 (英語では 「良いこと」) としてくださるとあります。 これが神の目的です。 クリスチャンにとって、「良 い結果」という目的のない痛みはありません。あるとき教会で 「神さまが息子さんを守ってくださいましたね。 神は本当に良いお方です」と、ある夫婦に話しかけました。 前夜、 彼らの息子は交通事故に遭って、 緊急手術のできる遠くの病院 に運ばれました。 一時は危篤状態でしたが、 一命を取り留めたのです。 しかし隣には、 数年前に娘を交通事故で失った夫婦が立っていました。 私はハッとしました。 「神さまはこの人たちにとっても、良いお方なのではないのだろうか。 私はどういう定義で 『良い』 という言葉を使っているのだろう。 娘さんを亡くされたご夫婦は、 私の言葉を聞いてどう思ったのだろう?」

 神はローマ人への手紙 8 章 29 節で、 「良いこと」 (日本語で は 「益」) を定義してくださいました。 ここでは、 神の目的のために召された人々のために、 ひとつのプロセスがあると言われています。 では、 神の目的とは何でしょう。 それは 29 節によれば、 御子のかたちと同じ姿になることです。 これこそが「益」なのです。 キリストの品性をますますはっきり反映させるものが、 私たちの人 生の内に、 または、 人生を通してあるなら、 それが 「良いこと」 です。 痛みであれ喜びであれ、 その体験が、 私たちをキリストに似せていくなら、 それは 「良いこと」 です。 それが、 痛みのプ ロセスにおける神の目的です。 すべての出来事は、 神の許可があって起こりました。 神はこれらすべてを用いて、 キリストを反映させるものへと私たちを変えていかれます。

 

 家族でセミナーに参加していたとき、 末息子のマシューが手首を骨折しました。 私はあのような手を見たことはありません。 腕 が手首のところで左に鋭角に曲がり、 再び反対に曲がって手のひらになっていました。 目を背けたくなる、 気持ちの悪い姿でし た。 急いで病院に駆け込みました。 医者が息子の手を引っ張っ て、額に汗を浮かべながらねじりました。 息子の痛がる姿を見て、 私は医者につかみかかって、 息子から引き離してやりたいという衝動にかられました。 しかし、 見守るしかありません。 マシュー の腕は本来のかたちに回復されなくてはなりません。そのために、 彼は数週間、 痛みと不便を忍ばねばなりませんでした。

 

 私たちは、罪によって傷つき壊れています。 神は良いお方です。 神は愛です。 そんな神が、 私たちを回復させなければなりません。 当初のご計画のとおり、 御子のかたちに回復させるのです。 あわれみと義、そして愛の心を回復させなければなりま せん。 元来のご計画のとおり、ご自分の栄光をあらわすために、 神は、私たちを作り変えなければなりません。 神は、私たちを 「良いもの」 に変える計画をお持ちであるだけではありません。 その計画を完成する力も持っておられます。

 預言者イザヤは、 神は 「すべての悲しむ者を慰め、 シオンの悲しむ者たちに、 灰の代わりに頭の飾りを、 悲しみの代わりに喜びの油を、 憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためで ある。 彼らは、 義の樫の木、 栄光を現す主の植木と呼ばれよう」 と語りました (イザヤ 61 : 2-3)。 また、 神はいなごが食い尽くし た年を償うことができます (ヨエル 2 : 25)。

 ミケランジェロは、 石のかたまりから 「ダビデ像」を彫り出しました。 キャンバスに絵の具で傑作を描いた画家たちがいます。 最近は、 鉄の棒を曲げて溶接した不思議なモニュメントも広場 に展示されているでしょう。 しかし私は、 灰から芸術作品を生み 出した人を見たことがありません。 それができるのは神だけです (イザヤ 61 : 3)。

 神は人生にキリストの愛をくださいます。 そのために、 痛みの 体験が必要なのかもしれません。 他の人のニーズに敏感になる ために、何らかの必要を覚える辛い日々を、 私たちは通される のかもしれません。 それに伴って痛むというのなら、 それは 「良いこと」 です。 私たちは泣く者とともに泣けるでしょうか。

 キリス トのように純粋に同情するようになるために、 私たちには涙を流す体験が必要なのかもしれません。 自分のことは自分でできると思っていませんか。 豊かな社会の悲劇は、 神が必要だとほとんど感じられないことです。 ところが実際、 私たちは、どうしようもないほど神が必要なのです。 私たちの安定は、 多少は覆されるかもしれません。 キリストのように神に頼って生きるようになるため にです。 とすれば、 たとえ痛みを伴ったとしても、 それは 「良いこと」 です。

 私たちは、 神に忠実でしょうか。 悲劇が起こって衝撃を受けるかもしれません。 神が生きて働くお方であることを体験し、 キリス トのように神を信頼して歩むことを学ぶためです。 とすれば、 そ れは 「良いこと」 です。

 私たちは、 プライドが高く、 他人に無関心で、 性的好奇心が 強く、わがままで恨み深く、 否定的で怒りっぽくはないでしょうか。 神は、 御子イエスという模範を与え、 このお方のように生きなさ いと語っておられます。

 

 神は、 私たちの中に良い変化を起こすことができます。 何が最善であり、 そのために何が必要かをご存じです。 神は愛に満ち溢れた力強い彫刻家です。 キリストの姿が見えるまで、 私たちの弱い部分を削り取ってくださいます。 神を知る人たちにとって、 痛みは、 ある目的のために通らねばならないプロセスです。 私たちは、 辛いときを何とかやり過ごしていくのではありません。 麗しいキリストのように作り変えていただくために、 困難の中を通らせていただきます。そして、 それは 「良いこと」 です。

Joe Stowell





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貧しい国の神の豊かな恵み

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神の導きとご計画はいつもベスト

 1月13日からストライキがなくなりました。国の政治情勢は少しづつ平静を取り戻してきました。長いストライキの影響で病院に来られなかった患者さんたちもようやく来れるようになりました。

 11月28-29日のモバイル(移動)クリニック、12月113-15日のミッション・カンファレンス、今回1月17-24日のインド、1月26日ー31日のタイでの宣教師たちの交わりの集会はストライキのために中止となりました。

 患者さんたちのために、インドとタイに行かないように導かれました。(使徒16:6-10)インド、タイの集会は主のみ心と思い計画していたのですが、昨年10月から1月の初めのストライキは、病院の運営に大きな支障をきたしました。

 今回、神は外国へ出ないで、国内にいるように導かれました。インド、タイで主の証をすることもできたのですが、この病院にとどまり、患者さんたちのお世話をするように導かれたのです。

 神のご計画と人間の計画は違います。しかし、神の導き、ご計画はいつも最善である事を今回も教えられました。(記事と写真は無関係)






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2017年11月17日 (金)

自分か神か?

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 真の神を固く信じて歩んでいる主の働き人であっても、時間に追われて、ふと「不安」に襲われるときがある。そのような時に、忙しさを理由に見て見ぬふりをしてしまことがあるが、そういうときこそ立ち止まって考えてみることが大切である。

 詩篇の作者は、46章10節で次のように書いている。

「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。

わたしは国々の間であがめられ、

地の上であがめられる。」

 自分が忙しさに忙殺され、不安があるといったときに考える時間もないならよくない。聖書を読んだり、祈ったり、礼拝に出席できなほどの忙しさは罪である。そのような人は、自分の優先順序を熟考しなければならない。主の働き人も、奉仕が忙しすぎて、神との時間が取れないなら、いつかはいきずまる。

 自分は忙しいからこれでいいのだと言い聞かせるのは危険である。それらは、肉体的、精神的にあなたを追い詰める。忙しいのを言い訳にせず、聖書読み、祈り、神の前に自分の正直な気持ちと向き合う時間が必要である。

 あなたは、神と十分な時間を毎日とっているか。それとも、この世の雑事で忙殺されて、神との関係をおろそかにしていないか自己吟味してみよう。





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貧しい国の神の豊かな恵み

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詩篇46:10

 「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。

わたしは国々の間であがめられ、

地の上であがめられる。」

“Be still, and know that I am God: I will be exalted among the heathen,

I will be exalted in the earth.”   

Psalms 46:10

 数年前、10月から1月まで、ストライキが連続で続き、病院での仕事が思うように出来ない状態でした。しかし、その期間に私は主の御言葉を心に蓄え、多くの事を学ぶことができました。

 主の素晴らしい御教えを見出すことができたのです。それらは、金銀の儲けよりも遥かに勝るものです。病院の収入は激減しましたが、神からの霊的な恵みは、この期間に多く与えられました。

 神の知恵、また、その崇高な教えを聖書の中に見出す貴重な時間をいただき、聖書から多くの事を教えられたのです。このストライキの時期に時間を無駄に過ごすことなく、御言葉の学びに専念し、神の知恵を、もっともっと見出したい思いでいっぱいでした。

 このような素晴らしい機会が与えられたので、主を心から褒め称えます。

詩篇103:1-2

1 わがたましいよ、主をほめたたえよ。

私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。

2 わがたましいよ。主をほめたたえよ。

主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。

Psalm 103 :1-2

1 Bless the Lord, O my soul: and all that is within me, bless his holy name.

2 Bless the Lord, O my soul, and forget not all his benefits:






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2017年11月13日 (月)

貧しい国の神の豊かな恵み

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イザヤ書55:8

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、

わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。」

 私が宣教している国の政情不安が長らく続いている。私たちは決して政情不安を望まない。平和と繁栄が続くことを望む。しかし、神の導きでこのような問題が頻繁に起こっている。これは神の摂理によるので、このような状況でもキリストの平安と喜びを証しをして世の光として輝き、地の塩として腐れを遅らせたい。

 数年前の1月1日から無期限のストライキが続いた。その年の1月5日には総選挙が行われたが、多くの人は投票所にもいけなかった。そのような理由で、投票率は10%前後であった。選挙後も混乱は続いた。日増しに国の事情は悪化した。輸送もできず、日常生活も困難を極めた。これらの出来事は選挙の度ごとに起こっている。

箴言3:13

「幸いなことよ。知恵を見いだす人、

英知をいただく人は。」

彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。

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イザヤ書45章5節~7節

45:5

 わたしが主である。ほかにはいない。

わたしのほかに神はいない。

あなたはわたしを知らないが、

わたしはあなたに力を帯びさせる。

45:6

 それは、日の上る方からも、西からも、

わたしのほかには、だれもいないことを、

人々が知るためだ。

わたしが主である。ほかにはいない。

45:7

 わたしは光を造り出し、やみを創造し、

平和をつくり、わざわいを創造する。

わたしは主、これらすべてを造る者。」

 今日の午後、千葉県にあるクリスチャン墓地で記念式を行いました。当神学校の神学生たちもいろいろ奉仕、準備、かたずけを手伝ってくれました。感謝します。今から4年前に素晴らしい場所に、当教会独自の墓石が与えれられました。メンバーの一人の姉妹が2年がかりでデザインして完成しました。当会員の誇りです。さて、クリスチャン墓地、墓石の意義を考えてみたいと思います。千葉県にあるこの墓地は、クリスチャンのためだけです。先祖崇拝は禁止されております。偶像に対する捧げものもありません。



 聖書には、死者の霊が成仏できずに後世にたたり、様々な災いをもたらすという教えは、全くありません。ましてや、遺族や親族が死者の成仏の為に供養しなければならい、または魂を救う力が人間にあるという傲慢な思い上がりはありません。吉凶禍福の一切、「いのち」を与え取られるのも主権者なる神の御手にあるのです

 召天者記念会には、【追善供養】【怨霊封じ】の意味合いは全くありません。キリスト教はそのような事をするのは返って死者への冒涜と考えます。何故なら、故人は、愛する家族や子孫の幸せと繁栄を願いますが、決して不幸な状態を望んでいないと信じるのです。





 こうして聖書の教えに従う私たちにキリスト者は、聖書の示すままに、死者の為の追善供養とか、怨霊鎮め(封じ)の要素は一切ありません。一重に
記念の意味となります。その意味で「墓地」も【記念碑】と理解されます。

それ故にその内容は、

  ①故人を偲び、懐かしむ

  ②故人への主の恵みを感謝する。

  ③遺族を励ます

  ④自分自身の死を覚える

  ⑤いのちの主を恐れ崇める。

  ⑥故人の望みを思い返し、自分の生き方の訓戒とする。

  ⑦故人が救われたクリスチャンである場合やがて与えられる再開を待ち望む 

  ⑧最後まで、忠実にキリストに従って天に召された人々は、この世から去ってもキリストの証しをし続ける。


  ⑨救われていない家族、親戚、友人に福音を明確に伝えるなど





ヘブル書11章4節B

「彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」

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2017年11月10日 (金)

心から悔い改めて父のもとに帰って来た息子

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 「ある人に息子がふたりあった。弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』

 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』

ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。」 (ルカの福音書 15章11節~24節)

 イエス・キリストは「放蕩息子」のたとえ話を通して、私たちにとても大事なことを教えておられる。それは、神に対する本当の悔い改め神の愛である。本当の悔い改めとは、神に背く人生がどんなに愚かであるかを気づき、心から神を信じる方向に転換する行動である。ここに出てくる放蕩息子は、自分の生き方がどれほど愚かであったかに気づき、父のところへ帰る決心をした。彼は自分勝手な生き方がいかに愚かであるか気づき、そして父のところに帰っていった。


 放蕩息子の「遠い国へ」の旅立ちは、父からの独立ではなく、孤立であった。それは親との関係を切り離して、遠い国で自由気ままな生活をしたいという欲望であった。これは親子関係を無視した自分本位の生き方である。私たちもまた、神に対して、そのようである。神を信じると好きなことができないからと勘違いをし、神から孤立し、神を無視した生活をしている。ここに人間の本末転倒がある。

 私たちのいのちは偶然に発生したものではない。神が私たちを造られ、今も、生かしてくださっている。聖書に「神が私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられた」とある。しかも、私たちが生きて行く上で絶対に必要な衣・食・住は神によって与えられている。だから、私たちは神に感謝して生きることが当たり前のことである。

 ある人は言う。「私は神なしでも生きていける」と。確かにそうだ。しかしそれは、私たちがたとえ極悪人であったとしても、神のあわれみゆえに、神の定めた時期まで生きられるだけである。しかし、神を抜きにしては、自分がどこから来て、何のために行き、死後どこへ行くのかという人生の三大問題の回答を得ることはできない。人間は動物と違い理性がある。だから、私たちが生まれてきた意味、死後の行き先などに対する答えがない限り、私たちの心が満たされない。そこに「むなしさ」と叫ぶ理由がある。このむなしさを埋めることができるのは、人間を創造された真の活ける神だけである。

 話しをもとに戻そう。父を父とも思わず、放蕩に身をくずして、身も心も汚して帰ってきたこの放蕩息子を、父は喜んで迎え入れた。父は放蕩三味に遊んできたこの息子を叱り飛ばさず、むしろ、涙と口づけとゆるしをもって迎え入れた。そればかりか、祝宴まで開いて、指輪と最上の服を着せて祝福した。この父の愛こそが、神の私たちへの愛と救いを教えている。神は放蕩息子を快く迎え入れた父のように、神に立ち返る私たちを喜んで迎え入れてくださる。そのために、神様は私たちの罪の赦しを、ご用意してくださった。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(コリント人への手紙第Ⅱ 5章21節)「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 (ヨハネの福音書 3章16節)

 多くの人は、自分の努力や行いでもって罪を聖め、神に受け入れられようと努力する。しかし、その人は、どこまでも罪人なのである。神は自分の努力や行いに頼ることをやめてキリストに頼るように勧めておられる。

 私たちがしなければならないことはただ一つである。それは神に背く人生を止めて、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死に、三日目に甦られ、今も生きておられるイエス・キリストを心から信じることである。これ以外の救いはなく、これが私たちに用意された神の救いのなのである。この事実を理解された知識だけでは救われない。キリストに対する信仰が必要である。へりくだって心からイエス・キリストを自分の罪からの救い主と信じていただきたい。(*゚▽゚)ノ

T.K.

2017年11月 8日 (水)

水野源三の詩  キリストを知るため

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病に倒れたその時には 涙流して悲しんだが

霊の病いやしたもう キリストを知るためだとわかり

喜びと感謝に変わった。

友にそむかれたその時には 夜も眠れずに恨んだが

とわに変わらない友なる キリストを知るためだとわかり

喜びと感謝に変わった。

過ち犯したその時には 心を乱してくやんだが

すべてをば 償いたもう キリストを知るためだとわかり

喜びと感謝に変わった。






1歴代誌16:34

16:34

 主に感謝せよ。

主はまことにいつくしみ深い。

その恵みはとこしえまで。





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聖書の学び

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 聖書の原典に使われているヘブライ語やコイネーギリシャ語は、日本語と非常に異なる体系の言語である。このような違いが(時代的な違いもそうであるが)聖書をわかりにくくしている。

 聖書を翻訳する場合、言語の持つ様々な意味を一つに絞って日本語にするわけだが、当然、聖書の言葉の複雑な特徴、文化、習慣を無視するなら、霊感された当時の目的をおおいに損なってします。ヘブライ的、ギリシャ的な意味も薄れてしまう。このようなズレを最小限にするためには、日頃から聖書の中の鍵となる言葉をよく研究し、学んでおく必要がある。

 聖書言語、また、他の研究を通して、聖書が霊感された時の、それらの箇所の目的(主題、tevloVを理解するように努める。また、聖書記者、読者が、それを書いた時、受け取って読んだ時、どのような感じたかを深く考えてみよう。

聖書を読み、研究する

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ヨハネの福音書19:19-20

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 ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス。」と書いてあった。

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 それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書いてあった。

      ヘレニズム・ローマ時代の人々にとっては、二国語併用が普通であって、彼らが使っていたギリシア語は古典ギリシア語とは違う “コイネー”(共通) と呼ばれるものであった。 ヘブライ語といわれているものも実際はアラム語で、旧約聖書のヘブライ語は当時のユダヤ人にとっては死語となっていた。 ユダヤの地の会堂(シナゴーグ)ではともかく、諸地方に散在しているユダヤ人の会堂では、このコイネーに翻訳された旧約聖書(LXX)が読まれていた。 しかしこのコイネーは紀元前3世紀頃のもので、それに対して新約聖書は紀元1世紀頃に普及していたコイネーで書かれている。 その上、同じコイネーでも LXX や新約聖書のものにはヘブライ語やアラム語の語法の痕跡が多く含まれている。

いわゆる原典

      聖書の勉強の中で原典講読というのがあるが、実は聖書には書かれた当時の原稿がそのまま残されているのではないから、多くの写本 ・・・・・ 実際には写本の写本の ・・・ さらにまた写本 ・・・・・ を比較検討して作られた “底本” を読むのである。 しかもその底本にもいろいろあるのだから、厳密にはどれも “原典” ではなくて、校訂本なのである。

聖書の勉強と語学

 聖書を本格的に勉強したことのない人は、ヘブライ語やギリシア語を習得しなければ、聖書を本当に理解することは出来ないなどと思ったりする。 しかし、実際に学習してみると、それは聖書の勉強に必要なたくさんの手段のほんの一つでしかないことが分かる。 たとえば本格的な注解書を読むには英語に堪能である必要がある。 定評のあるギリシア語やヘブライ語の辞書も英語で書かれてある。

 

日本語の聖書

 日本語の聖書の翻訳について、 “これは誤訳だ” などと物知り顔に言う人に出会うと、多少聖書を勉強した者には恥ずかしい思いをする。 本当の専門家はそんなことは決して言わない。 聖書を翻訳するという仕事は、ただ外国語(ギリシア語やヘブライ語)を日本語や英語に “変換” するような単純なものではない。 現代語の聖書が作られる場合、その信頼性の根拠は、過去2千年間の膨大な聖書の研究の積み上げの上に成り立っているのである。 当然いろいろな時代のいろいろな言語の翻訳聖書が参照され、高度な学問的作業が行われ、これまた当然いろいろな学派や研究の伝統が生まれて互いに競い合うことになる。 翻訳聖書が何種類もあるからといって、簡単にあれは間違っていて、これは正しいなどと物知り顔に言う人は、自分の無知の恥さらしをしているだけである。

聖書を読む

 日本語の聖書だけでも、これまでにたくさん出版されていて、私たちは簡単に何種類もの聖書を入手することが出来る。 いちばん代表的なのの一つは新改訳聖書であるが、他にも “文語訳” “口語訳” “新共同訳” などがある。 先ずいちばんの基本は素読と通読である。 ほんの1ページだけ読んで、いっぱしの批評をしているようでは、とても見込みない。 聖書はそんな簡単な読み物ではない。生涯研究するに値する神の言葉である。 次の段階としては、特にしっかり学ぼうと思う部分を、いくつかの翻訳を比較しながら平行して読んでみることである。 これはやってみると労は多いがなかなか有益である。 あまり出来のよくない注解書に失望したことのある人なら、そんなものよりもこの方法がいかに実り多いかを知って驚くことだろう。さらに英語が分かる人は、英語の聖書とも比較参照して読むと、もっと楽しくなる。 それもいろいろな時代のものがあって、20世紀のものだけでなくもっと古い翻訳も貴重である。併せて、ヘブライ語、コイネーギリシャ語で読めたらさらに深みに行くことができる。

結 語

 専門家になって、本格的な注解書を読む必要のために、ギリシア語やヘブライ語の原典を参照するというのは、大変レベルの高いことである。 一般の人が聖書を学ぶのには、それよりも以前に日本語で出来ることがたくさんあることを、よく理解してほしい。

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ギリシャ語の聖書をよめば (八木重吉)

とおのうちのたったひとつのいみがわかるだけでも

ひろびろとすみきって

おさなごのようにたんじゅんなまことが

すぐさまこころへふれてくるのをかんずる

くるしいわざではあるが

かみよ このべんきょうをつづけさせたまえ





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«僕を、パパとママが一番愛しているものにしてください。