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2019年1月

2019年1月31日 (木)

どこへでも

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イエスさまがともにいてくだされば

安らかにいけるでしょう。

どこにいてもこの世において

イエスさまはわたしを導かれます。

どこにいてもイエスさまがおられなければ

あふれる喜びも消え失せるでしょう。

どこにいてもイエスさまがともにいてくだされば

わたしにには恐る事はありません。


Jesusisalwaystheretoguideusheisalwa

どこにいてもイエスさまがいてくだされば

わたしはひとりではないのです。

たとえ友が背を向けてしまっても

イエスさまはわたしのベストフレンドです。

変わる事はありません。

イエスさまの御手が荒れはてた道に、わたしを連れて行っても


イエスさまがともにいてくだされば

どこでもそれは賛美の家です。

(Author Unknown)

神学校ミニ・ニュース

 いよいよ明日、金曜日から最終学年の最終学期が始まります。どうぞ、神学生の学びを祈りで支えてください。

ユダヤ人を救った人々⑤

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ユゼフ・ウルマ(Józef Ulma)とヴィクトリア・ウルマ(Wiktoria Ulma)はマルコヴァという村(ポドカルパツキエ県)の住民だった。

1942年、ドイツの占領下で自らの命の危険も顧みずウルマ家は8名のユダヤ人に対し住処を提供した。ユゼフとかくまっていたユダヤ人のうち男性は、皮なめしの仕事をしていた。

1944年3月24日の朝、彼らはドイツ兵により殺害された。はじめにユダヤ人が、次にユゼフとヴィクトリア(当時妊娠9ヶ月であった)、そして8歳から1歳半までの6人のウルマ家の子どもたちも殺された。

1995年、彼らの死後ではあったが「諸国民の中の正義の人」として認定される。2010年には当時のポーランド共和国大統領レフ・カチンスキがポーランド復興勲章も与えた。

ドイツ占領下のポーランドにおいては、ユダヤ人を救う動きは、見つかれば死刑に処されるという大変な勇気と決意を伴うことであった。

2018年3月24日はウルマ家と彼らのもとで暮らしていたユダヤ人が殺害されてから74年が経った日であり、ポーランドでは初めて、ドイツ占領下でユダヤ人を救ったポーランド人の国家記念日として取り上げられた。(Insytut)



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2019年1月29日 (火)

多くのユダヤ人の命を救った日本人外交官、杉原 千畝



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◆ ビザを求めるユダヤ人難民

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▲1939年ころのヨーロッパ

 1940年7月18日、リトアニアの首都カウナスにある日本領事館は朝早くからたくさんの人たちが取り囲んでいた。彼らはナチス・ドイツから逃れるために、隣国ポーランドからお年寄りや子どもの手を引きながら、夜を徹して歩いて来たユダヤ人難民の家族の人たちである。みんな日本通過ビザの発給を求めて命がけでこの領事館にやって来た。

 当時、ヨーロッパではドイツがオーストリア、チェコ、ポーランドを侵略、さらにオランダやベルギー、デンマーク、ノルウェー、フランスに侵攻して、その戦火はヨーロッパ全土に拡がりをみせようとしていた。ユダヤ人の根絶政策を掲げるナチスの手から逃れるためには、今や、ポーランドのユダヤ人に残された避難ルートは、シベリアを経由して日本へ渡り、そこからアメリカやパレスチナなどへ渡るほかに道は残されていなかった。

◆ 命令に背いた決断

 「日本の通過ビザ」を求めて必死になって懇願するユダヤ人難民を目の前にして、領事代理(実質上は領事)の杉原千畝は苦悩していた。

◆領事館に集まった多くのユダヤ人

 日本の外務省はビザ発給の条件を、「行き先国の入国許可手続を完了し、旅費及び本邦滞在費等の相当の携帯金を有する者に発給する」としていたため、避難民のほとんどは受給資格を欠いていた。千畝は緊急のビザ発給許可を外務省に求めtたが、どうしても許可は下りなかった。その背景には、日独伊三国同盟の締結を間近に控えていたことから、むやみにドイツを刺激したくないという国内での政治的事情もあった。

 ユダヤ人難民の人命救助、かたや外交官として本国の指示に従うべきとの判断の狭間に立たされて千畝は迷い、悩んだ。その間にも領事館を取り囲むユダヤ人難民は数を増やしていった。そして七月二五日、ついに自らの心に従った千畝は、職を賭して日本通過ビザの発給を決断した。「私は人間として、この人たちを見はなすことはできない」と。

 なお、無謀とも思えるこの決断にあたっては、日本へ上陸できさえすればこの人々は助かるだろうとの確信のもと、千畝はソビエト総領事館に交渉してユダヤ人難民がソ連国内を通過できるよう認めてもらった。

◆ 「命のビザ」の発給

 7月29日、その日も朝早くから集まって来たユダヤ人難民を前に、千畝は「みなさんがたに、日本の通過ビザを発給することになった」と大きな声で知らされた。すると一瞬、その場の時間が止まったかのような静寂の後、大きなどよめきと歓声が千畝を包まれた。でもそれは、大変過酷な仕事への始まりでもあった。

 すでに3000人を超すユダヤ人たちが通過ビザの発給を待っていたが、1時間に10人分をこなすのが限界であった。1人でも多くの人を救いたい。その思いから、千畝は1日に300枚を目標に、食事や寝る間も惜しんで、ビザを書き続けた。しかし、ビザ用紙もそんなにたくさんは置いてはいなかったため、なくなってからは全て手書きとなり、予想以上に手間がかかる作業となった。

 そんな作業が20日以上続いた頃には、どんなに気力をふり絞っても、体力はすでに限界となっていた。しかも8月3日、リトアニアはソ連に併合され、ソ連から領事館の閉鎖が通告され、日本の外務省からも至急ドイツの大使館へ移るよう、再々の退去命令が千畝の元へ届いた。リトアニア滞在が限界となった9月5日、ついに杉原家はベルリンに向け出発しtた。駅には、たくさんのユダヤ人が来ていた。汽車が動きだすまでの短い時間を使って、そこでも千畝は通過ビザに代わる渡航証明書を書いて手渡した。

 こうして発給されたビザの記録リストには、名前が残っているものだけでも2000人を超えた。1家族で1枚のビザでよかったため、記録から漏れている人を合わせると、少なくとも6000人とも8000人ともいわれるユダヤ人の脱出を助けたことになった。

◆ 苦難の帰国と転機

 その後、千畝は家族と共にチェコ総領事館、東プロイセン総領事館、ルーマニア公使館に赴任して終戦を迎えた。戦後1年半近くまでブカレスト郊外の兵営に収監された後、シベリア鉄道を経て1947年4月にようやく博多港にたどりついた。

 何とか無事に帰国ができて外務省に復帰したのもつかの間、6月には省内のリストラを理由として退職に追い込まれた。退職の理由について本人は多くを語らなかったが、ビザ発給による命令違反の責任を負わされたとの説がある。外務省を退職した千畝は、得意の語学を活かして進駐軍やNHK、貿易商社など勤務を転々とした。そしてリトアニアでの出来事のすべてが忘れ去られようとしていた1968年、東京のイスラエル大使館からの突然の電話が千畝の心のわだかまりを解かしていくことになった。

◆ みんな忘れない(千畝が発行したビザ)

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 おもむいたイスラエル大使館で、参事官が千畝に1枚の古びて黄ばんだ紙切れを見せた。驚くことに、それは千畝がカウナスで発給したビザの1枚だった。彼はこのビザによって命を救われた1人であった。そして、イスラエルでは助かった何千という人が、今もこのビザを宝物として大事に持っている。なお、再会に28年間もかかったのは、千畝が外国人に発音しやすいよう、自分で「センポ」と名乗っていた理由も一因であった。長い月日が過ぎて時代は変わっても、助けられたユダヤ人達は、ずっと千畝のことを忘れなかった。(JKNet)

多くのユダヤ人を救った人④

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  タデウシュ・ロメル(Tadeusz Romer・1894-1978)は、1937~41年(39年かRomer らポーランドは亡命政府)に赴任していた初めての駐日ポーランド大使。1942年から43年はソビエト連邦で大使を務め、1944年11月からは亡命政府スタニスワフ・ミコワイチク内閣の外務大臣であった。

 1920年代は外務省員として、パリ、ローマ、リスボンで外交官としての仕事に従事。駐日ポーランド共和国大使となったのは国際関係に緊張が走り、戦争の雰囲気が増していた時期で、第二次世界大戦勃発後も東京にあったポーランド大使館は亡命政府の代表として役目を果たしていた。

 当時、日本には東ヨーロッパからの避難民の波が押し寄せていた。1940年8月から41年の間、日本に辿り着いたのは2185名、そのうちの多くはユダヤ人、特にリトアニアのヴィリニュスとカウナスからの人が多かった。彼らの大部分はウラジオストク経由でオランダの架空のビザもしくは日本の通過ビザ(トランジット・ビザ)を持っており、これはポーランド側と協力をした在カウナス日本国領事 杉原千畝が発行したものだった。

 1940年10月、ロメル大使は東京に戦争難民救済委員会を設置、これを指揮したのは大使夫人のゾフィア・ロメルであった。委員会役員は敦賀港(乗り換え地点)に待機し、そこから神戸、横浜、東京へ向かって次なる助けの手の元へユダヤ人を送る手助けや、パスポートやビザの手配等を行った。

 1941年10月、日本とポーランドの国交断絶を受け、大使館員は上海へと移動することとなった。上海でも救済委員会は活動を継続し、「上海記帳(仮訳。原語:Księga Szanghajska)」に救出した人々の名簿を記録した。

 

1945年からロメル夫妻は移民となり、最初にロンドン、次にカナダへ移住。タデウシュ・ロメルはカナダのモントリオールでマックギル大学の教壇に立ち、1963~78年にはポーランド科学研究所の所長を務めた。(Insytut)

2019年1月26日 (土)

多くのユダヤ人を救った人③

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 イレナ・センドレル(旧姓クシジャノフスカ)は、1910年にワルシャワDaee55xuwaewoqq 近郊のオトフォツクで生まれた。父は医師。第二次世界大戦でナチス・ドイツの占領が始まると、彼女は抵抗運動に加わり、ワルシャワ・ゲットーが作られる前から、ユダヤ系の同胞を援助する活動を行っていた。

 ダヴィデの星の腕章をつけ、女性同志たちとゲットーに出入りし住民を看護。救出した子どもについては、身分証を偽装して持たせながらも、将来彼ら自身が自分は何者で親は誰なのかが分かるよう、本名との対応リストを作り、ビンに詰めて埋めるなどした。

 1942年にポーランドの地下組織「ユダヤ人救済委員会【ジェゴタŻegota】」が結成されると、コードネームを「Jolanta」とし、子ども救済部長となった。1943年10月、密告を受けたゲシュタポにより逮捕、パヴィアク刑務所女性等に収容される。ジェゴタは高額の賄賂を払い、イレナを救出。釈放後も「クララ・ドンブロフスカ」の偽造身分証により活動継続。

 1954年以降は医療・福祉関係の複数の学校で副校長を務め、63年に初めて対戦中のユダヤ人救出活動について文章を公表した。1965年にイスラエルのヤド・ヴァシェム研究所により、「諸民族の中の正義の人」メダルを授与される。

 2003年には、ポーランド共和国最高位の「白鷲勲章」を授かる。2007年には、子どもたちの請願により、微笑み勲章を受ける。2006年には、レフ・カチンスキ大統領が、彼女をノーベル平和賞候補として推薦。イレナ・センドレルは2008年5月12日に死去。亡くなるまで、「自分にはもっと多くのことができたはずだったのに」と言っていた。

2017年6月、ポーランド共和国下院は、2018年を「イレナ・センドレル記念年」とする決議を行った。「一人の人間を救済するために、全てを捧げた女性を讃えて」(insytut)

ポーランドで多くのユダヤ人を救った人②

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 ヴィトルド・ピレツキ(Witold Pilecki)は1901年5月13日、当時ロシア帝国にあ20190126_70110 ったオウォニエツという町で生まれる。5人兄弟の次男(長男は5歳で逝去)。1910年にヴィリニュスへ移住、商業学校を卒業。1918年~21年にはポーランド軍に入隊、その後ポズナン大学で農業を学び、美術学校で聴講もしていた。


 1939年9月、ポーランド軍に入り、ポーランド侵攻で戦う。1940年にアウシュヴィッツナチス・ドイツ強制絶滅収容所がつくられた。初期の段階でここに収容されていたのはポーランド軍、ソ連軍の捕虜であった。当時地下組織で活動をしていたピレツキは収容所内の状況を確認・報告するためアウシュビッツに進んで入所、潜入する。この時点での目的は、収容所内に地下組織を作ること。内部情報をワルシャワの司令部に届けること。収容所内の不足物資を外部から調達する一端を担うこと。そして最終的にはロンドンの亡命政府を通じイギリス政府に働きかけ、収容所の解放を求めることであった。ピレツキが作成した報告書(「ヴィトルド報告」)には収容所内の非人間的な様子が綴られていた。この報告の存在が明らかになったのは1990年以降のことであった。



 収容所の脱走に成功したのは1943年4月26日から27日の間。948日間の潜入が終わった後、ピレツキはワルシャワ蜂起に参加。蜂起は鎮圧されるが彼は生き残り逮捕される。その後収容所は解放されるが、ポーランドではソ連が台頭し、反ソ連の運動の中心であった国内軍の一員であったピレツキはまたしても逮捕、度重なる拷問の末、死刑に処され1948年5月25日死刑執行人ピオトル・シミェタンスキにより後頭部を銃で打たれ生涯を閉じた。ピレツキは「呪われた兵士たち」の一人として挙げられる。彼については、2015年に小林公二氏により書籍「アウシュヴィッツを志願した男 ポーランド軍大尉、ヴィトルド・ピレツキは三度死ぬ」が発表されている。(insytut)

私はホロコーストを見た

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ポーランドのユダヤ人強制収容所 


ヤン・カルスキ(ポーランドで多くのユダヤ人を救った人①)20110626_3


 ヤン・カルスキ Jan Karski(本名ヤン・ロムアルト・コジェレフスキ)― 1914年4月24日〔ウッチ〕~2000年7月13日〔ワシントン〕

 戦時期のポーランドで、大学の法学部、外務省研修所、士官学校を卒業。大戦勃発後捕虜となるが、首尾よく脱走して、地下活動を始める。抜群な記憶力と諸外国語の知識を有する彼は、ポーランド地下国家の政治密使の義務を託された。

繰り返しフランス行きの特命を帯びた彼ではあったが、ついに、ゲシュタポに逮捕されてしまう。暴力的な尋問を受けた後、さらなる拷問を受ければ、ポーランドの地下運動に関する重要情報をドイツに暴いてしまうかもしれないと怖くなり、自殺を図った。助け出されて、刑務所病院に収容されたが、ポーランド軍事闘争連盟の援助で連れ出された。

 1942年、ヤン・カルスキの名(その後彼は、常にこの名を用いることになる)で、新しい使命を果たすべく、英国と米国に出発した。彼の主要な任務の一つは、連合国軍に、ドイツ占領下におけるユダヤ人の悲劇的な情報を伝えることだった。関連情報を集める途上で、2度にわたってワルシャワ・ゲットーとイズビツァの中継収容所(ユダヤ人はそこから絶滅収容所に移送されていった)に侵入した。

 現場を目撃した者のみが知る戦慄の事実を、多数のアメリカとイギリスの政治家・ジャーナリスト・芸術家に伝えた。英国政府の外務大臣、アメリカ合衆国大統領にも面会した。しかしながら、密使たる彼が行った、ユダヤ民族を救済すべしとのアピールは成果をもたらさなかった――対話を行った相手の多数は、彼の報告を信じないか無視したのだった。

 ヤン・カルスキは、戦後、亡命者として米国に残る決断を下した。大学で政治学を学び、ワシントンにあるジョージタウン大学で博士号を取得した。その後、さらに40年にわたって、母校で国際関係額と共産主義理論の講義を行った。彼の学生の中には、後に大統領となるビル・クリントンがいた。生涯の最後の20年間、ヤン・カルスキは「遂行されなかった特命」に立ち返った。アメリカ、イスラエル、ポーランドの集会で、戦争中のユダヤ民族大量虐殺について、この悲劇に対する全世界の関心をかき立てようとした自らの試みについて、繰り返し物語った。

 ヤン・カルスキは、権威ある賞を数多く受けている――「諸民族のなかの正義の人」の称号、ポーランド内外8つの大学の名誉博士号を授けられ、白鷲勲章(ポーランド最高の国家勲章)を受勲し、イスラエル名誉市民となった。自ら、ヤン・カルスキ&ポラ・ニレンスカ賞を設立した。この賞は毎年、ニューヨークのユダヤ調査研究所とワルシャワのユダヤ歴史研究所によって、ポーランドのユダヤ人の役割とポーランド文化への貢献を扱った刊行物の著者に与えられる。

また、日本では彼の著書「The Story of Secret State」の翻訳「私はホロコーストを見た」が2012年に刊行された。(insytut)

2019年1月25日 (金)

ヤコブの手紙 5:13~16

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ヤコブの手紙 5:13

 あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。

5:14

 あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。

5:15

 信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。

5:16

 ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。

The Book of James 5:13-16

13 Is anyone among you suffering? Let him pray. Is anyone cheerful? Let him sing praise. 14 Is anyone among you sick? Let him call for the elders of the church, and let them pray over him, anointing him with oil in the name of the Lord. 15 And the prayer of faith will save the one who is sick, and the Lord will raise him up. And if he has committed sins, he will be forgiven. 16 Therefore, confess your sins to one another and pray for one another, that you may be healed. The prayer of a righteous person has great power as it is working.

 


Koine Greek James 5:13-16

13 Κακοπαθεῖ τις ἐν ὑμῖν; προσευχέσθω· εὐθυμεῖ τις; ψαλλέτω. 14 ἀσθενεῖ τις ἐν ὑμῖν; προσκαλεσάσθω τοὺς πρεσβυτέρους τῆς ἐκκλησίας, καὶ προσευξάσθωσαν ἐπʼ αὐτὸν ἀλείψαντες αὐτὸν ἐλαίῳ ἐν τῷ ὀνόματι τοῦ κυρίου· 15 καὶ ἡ εὐχὴ τῆς πίστεως σώσει τὸν κάμνοντα, καὶ ἐγερεῖ αὐτὸν ὁ κύριος· κἂν ἁμαρτίας ᾖ πεποιηκώς, ἀφεθήσεται αὐτῷ. 16 ἐξομολογεῖσθε οὖν ἀλλήλοις τὰς ἁμαρτίας καὶ εὔχεσθε ὑπὲρ ἀλλήλων, ὅπως ἰαθῆτε. πολὺ ἰσχύει δέησις δικαίου ἐνεργουμένη.




 現在、私たちの神学校の卒業生の高木寿牧師(写真上)と当神学校の理事長であり牧師である田島信正師(写真下)のお二人がんで闘病中です。どうぞ、主から慰めと力が与えられるようにお祈りください。また、いやしのためにもお祈りください。どうぞ、両牧師の上に主の豊かなあわれみとみ心がなされますように。



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2019年1月19日 (土)

聖書の正典とは何か?

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 「正典」ということばは、法律の規制でその書物が標準に達しているかどうかを決定することからきている。聖書の書物は、書かれた瞬間に正典と認められるものであったことに注目することが大切である。聖書のことばは、ペンが羊皮紙にさわった瞬間に聖書のことばであった。これはとても大切なことである。なぜなら、キリスト教は神やイエス・キリストや救いの説明をするところから始まるのではないからである。キリスト教の土台は、聖書の権威にある。もし、私たちが聖書のなんたるかを見分けられないのなら、神学的な真理と間違いを正しく見極めることはできない。

 どの書物が聖書として分類されるべきだと決定するために、どのような尺度や基準が用いられたのか? 聖書が与えられた過程と目的と、おそらくタイミングを理解するためのカギとなる箇所は、ユダ3である。そこには、クリスチャンの信仰は「聖徒にひとたび伝えられた」ものであると書かれている。私たちの信仰が聖書によって説明されているのだから、ユダが言っていることは、基本的に聖書はすべてのクリスチャンの益のためにひとたび与えられたということである。探し出さなければならないような、隠されたり失われている原稿がないこと、ほんの一部の人にだけ知られている秘密の書物がないこと、また、私たちが悟りを開くために高い山に登って特別な啓示を受けた人を追い求めなければならないなどということがないことが分かっているというのは素晴らしいことである。神が私たちに証しを残してくださったことは確実である。神のことばである聖書を造ったと同じ超自然の神の力が、聖書を保持するためにも使われている。

 詩篇119:160は、神のことばはすべてにおいて真実であると言っている。その前提から出発して、聖書の正典として受け入れられなかった文書がテストに受かるかどうかを比較してみることができる。たとえば、聖書はイエス・キリストは神であると主張している(イザヤ9:6-7、マタイ1:22-23、ヨハネ1:1、2、14、20:28、使徒行伝16:31、34、ピリピ2:5-6、コロサイ2:9、テトス2:13、へブル1:8、ペテロ1:1)。しかし、聖書であると主張する聖書外のテキストの多くがイエスは神でないと議論している。明白な矛盾があるとき、確立している聖書が信頼され、他のものは聖書の範囲外であるとされるべきである。

 教会の初期のころ、クリスチャンたちは聖書の写しを持っていることで死刑に処せられることがある。この迫害のせいで、「死を賭すのにふさわしい書物は何か」という質問がすぐに起こってきた。イエスのことばを含んでいる書物もあったが、IIテモテ3:16に言われているように霊感されていたのか?教会会議が聖書の正典を公式に承認するのに一役買ったが、多くの場合個々の教会やグループが、そこに書いてあることからその書物が霊感されたものかどうかを認めた(例えばコロサイ4:16、Iテサロニケ5:27)。教会の初期の数世紀を通じて、いくつかの書物は文句なしに正典と認められ、正典のリストは西暦303年に基本的にまとまった。

 旧約聖書に関しては、3つの大切な事実が基準となった。1)新約聖書に引用または言及されていない旧約聖書の書物は2つだけ。2)イエスはマタイ23:35でイエスの時代の聖書の一番最初の物語と最後の物語を引用されたとき、効果的にヘブル語の正典を承認された。3)ユダヤ人の人たちは、厳密に旧約聖書を保存してきたので、どの部分が正典に属し、どれが属さないかという議論はほとんどなかった。ローマ・カトリックの外典は、基準に達することなく聖書の定義からこぼれ、ユダヤ人から受け入れられたことは一度もない。

 どの書物が聖書に属するかという質問は、イエスのとき以降の文書についてのものである。初代教会には、書物が新約聖書の一部とみなされるために非常に特定的な標準があった。その中には、その書物は、直接イエス・キリストを見た人によって書かれているか?その書物は、「本物テスト」にパスしたか?(例えば、その書物はすでに認められている聖書と同意見であるか?)その当時彼らが受け入れた新約聖書の書物は、時のテストを経てキリスト教正統派がそれらを受け入れ、その後何世紀もの間挑戦を受けることはほとんどなかった。

 特定の書物を正典として受け入れたことへの確信は、それらの確実性を直接目の当たりにした1世紀の書物の受取人たちにさかのぼりる。さらに、黙示録で取り扱われている終末問題と、黙示録22:18でこの書物のことばに付け加えることを禁じていることからしても、正典は黙示録の書かれたとき(およそ95年)に閉じられたことが強く論じられている。

 ここにひとつ、見落としてはならない大切な神学的ポイントがある。神は、ご自分のみことばを何千年もの間ひとつの主要な目的のために使ってこられた。ご自身を示し、人類とコミュニケーションをとるためである。究極的には、教会会議がどの書物を聖書とするかを決定したのではない。神が人間の著者を選ばれたときに、決められたのである。神のことばを何世紀もの間保持することを含めて、最終的な結果を達成するために、神は初代教会会議を導いて、正典を承認させた。

 神の本当のご性質、宇宙と生命の起源、人生の目的と意味、救いの素晴らしさ、人類の運命をも含む将来のできごとなどといったことに関する知識を取得することは、人類本来の観察と科学の能力 を超えている。何世紀にも渡ってクリスチャンが価値あるものとし個人的に適用してきた、すでに与えられている神のことばは、キリストについて私たちが知る必要のあるすべてのことを説明し(ヨハネ5:18、使徒行伝18:28、ガラテヤ3:22、IIテモテ3:15)、私たちを教え、正し、そしてすべての義の訓練のために十分なのである(IIテモテ3:16)。

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2019年1月16日 (水)

イザヤ書40:7-8 ヘブライ語原語と各国語訳

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イザヤ書40:8 (英語)






イザヤ書40:7-8

ヘブライ語聖書

7  יָבֵשׁ חָצִיר נָבֵל צִיץ כִּי רוּחַ יהוה נָשְׁבָה בּוֹ אָכֵן חָצִיר הָעָם׃

 

8  יָבֵשׁ חָצִיר נָבֵל צִיץ וּדְבַר־אֱלֹהֵינוּ יָקוּם לְעוֹלָם׃

70人訳コイネーギリシャ語聖書

7 ἐξηράνθη ὁ χόρτος, καὶ τὸ ἄνθος ἐξέπεσεν,

8 τὸ δὲ ῥῆμα τοῦ θεοῦ ἡμῶν μένει εἰς τὸν αἰῶνα.

 


新改訳

40:7

 「主のいぶきがその上に吹くと、

草は枯れ、花はしぼむ。

まことに、民は草だ。

40:8

 草は枯れ、花はしぼむ。

だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」

English Standard Version (ESV)

7  The grass withers, the flower fades

when the breath of the Lord blows on it;

surely the people are grass.

8  The grass withers, the flower fades,

but the word of our God will stand forever.

 

 

ヘブライ語を学ぶことの大切さ

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クムランの洞窟から発見されたイザヤ書1−2の部分





宗教改革者のルターは、聖書原語の重要性を認めていた。

 

 

 宗教改革者のM・ルターは1521年、3ケ月で新約聖書をドイツ語に翻訳し、翌年の1522年に新約聖書を出版した。その後すぐに、旧約聖書の翻訳にとりかかったが、その完成までには12年間を要した。ルター自身もヘブライ語を勉強したが、ヘブライ語教師のアウロガルスとメランヒトの助けを借りなればならなかったようである。しかし、ルター自身はヘブライ語の原文にふれることの重要性を信じていた。

 

 

 

 次のようにルターは書いている。「私はヘブライ語を学び、これを怠らないようにすすめる。この言葉がたとえ役立てる機会がないとしても、なおも感謝して学ばねばならない。ヘブライ語を教え、また、学ぶこと自体が信仰の一部であり、礼拝そのものである。このことばによってのみ神について学ぶ真理が存在する。・・・もし、私たちがヘブライ語を知らなければ、彼ら(ローマ・カトリック教会)は私たちをロバとののしるだろう。一方、ヘブライ語を知っているならば、彼らの愚かな口を封じることができる。」 




 ここで、読者が感動するのは「ヘブライ語を・・・・学ぶこと自体が信仰の一部であり、礼拝そのものである。」という部分である。私たちは聖書は誤りなき神の言葉と信じているが、その言葉はヘブライ語によって書き記されたのだということを改めて気づかされる。ヘブライ語の「言葉」は、ダーバールと言うが、それは「出来事」という意味も持っている。つまり、神の言葉が投げかけられるところに、神の出来事が起こるということである。そんなヘブライ語を、一生涯続けて、もっと深く学びたいと思う。

 


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クムランの洞窟

2019年1月14日 (月)

申命記31:8




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申命記31:8

「主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。

Dt.31:8

It is the Lord who goes before you. He will be with you; he will not leave you or forsake you. Do not fear or be dismayed.”

Dt.31:8 ヘブライ語聖書

וַיהוה הוּא הַהֹלֵךְ לְפָנֶיךָ הוּא יִהְיֶה עִמָּךְ לֹא יַרְפְּךָ וְלֹא יַעַזְבֶךָּ לֹא תִירָא וְלֹא תֵחָת׃

DT.31:8 Septuagint コイネーギリシャ語

καὶ κύριος ὁ συμπορευόμενος μετὰ σοῦ οὐκ ἀνήσει σε οὐδὲ μὴ ἐγκαταλίπῃ σε, μὴ φοβοῦ μηδὲ δειλία.

2019年1月 9日 (水)

来週はいよいよ期末テストです。

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詩篇 62:1

 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。

私の救いは神から来る。

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 昨年9月に始まった2018年度前期の学びも

来週期末テストを残すのみとなりました。神学生

たちは、よく学び、奉仕し、バイトにと励んでいます。

 上のみ言葉にあるように、「私のたましいは黙って、

ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。」というように、

忍耐を持って主を待ち望み、祈りつつ、心をしずめて

主の奉仕に励みましょう。神のみ心を待つ代わりに、自分

が先行するとき、いつも失敗します。

 みなさんの、お祈り、サポートを心から感謝です。卒業式

まで、120日強です。どうぞ、彼らの学びのために続けて

お祈りください。新しい神学生が与えられるようにも

お祈りください。

2019年1月 7日 (月)

エルサレム神殿崩壊 70AD, ユダヤ教、キリスト教

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 紀元70年にエルサレムはローマ軍によって破壊され、ユダヤ教の神殿も破壊された。ユダヤ教は、エルサレムの神殿崩壊により、神殿を権力の基盤としていたサドカイ派祭司階級は没落し、ユダヤ戦争に参加したエッセネ派も、本拠地クムランをローマ軍によって破壊され勢いを失った。もちろんユダヤ戦争を主導した熱心党は壊滅した。したがって、エルサレム神殿破壊後のユダヤ教を担ったのは、パリサイ派のラビたちだけとなった。パリリサイ派は、神殿の外で、民衆の中で救いの実現を目指していた、非祭司階級の運動であったので、もともと神殿なき時代のユダヤ教を担うことができる立場にあった。


 エルサレムから辛うじて脱出したパリサイ派のラビたちは、海沿いの地方の小都市ヤムニアにサンヘドリン(最高法院)の権限を受け継ぐ法廷を創設し、そこからヘレニズム世界の各地にあるユダヤ教会堂を指導するという形でユダヤ教を再建し維持した。この時代のパリサイ派ユダヤ教は、過激な終末待望とユダヤ戦争の悲劇を招いたメシア待望と、黙示思想に反対し、内向きになり、律法の厳格な順守を求めるようになった。


 パリサイ派ユダヤ教は、律法の厳格な順守に救いを求めたので、イエスを信じるユダヤ人を、黙示思想的なメシア主義の危険分子として、また異邦人と交わりで律法を汚している者として弾圧し、「ナザレ派の異端」としてユダヤ教会堂から追放した。なお、エルサレム教団もユダヤ戦争の時期にエルサレムから辺境のペラに脱出するが、次第に世界各地の集会に対する指導力を失った。


  イエスを信じる者たちの異邦人のキリスト共同体は、パウロたちの働きによってヘレニズム世界に進出し、異邦人信徒の数が増えていった。こうしてイエスをメシアと信じる信徒の群れは、紀元70年のエルサレム神殿の崩壊以後は、ヘレニズム世界に宣教を広めていった。そして、異邦人が人類救済史の担い手となる時代が始まった。

Mamoru

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2019年1月 4日 (金)

極悪非道の皇帝ネロ  ローマ大火と市街地改造 64AD

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 悪名高き皇帝ネロの時代、ローマは「永遠の都」と呼ばれた。カエサル亡き後にその養子オクタヴィアヌ スが前27年にアウグストゥス(元首)となり、ローマの市街地は順次整備されて、壮麗な神殿がフォロ・ロ マーノに立ち並ぶ。地中海をとりまく属国や属州から富と人がローマ市街地に集まり、1500ヘクタールほどしかない狭いローマ市域に100万人もの人が住んでいたという。これを可能にしたのがローマの誇るインフラである道路と水道設備であった。前30年に皇帝直属のローマ属州となったエジプトからは穀物が安定的に供給されたので、ローマ市民は無償で食糧を得ることができた。「永遠の都」は「パンとサーカス」の時代を迎えていた。

 ローマ市街地には6~7階建ての共同住宅(インスラ)が建ち並び、狭い道、常時の工事現場、大きな荷車、葬式の行列、コンロから出る煙、と喧噪と雑踏にまみれた居住環境だったらしい。哲学者セネカは「ありとあらゆる種類の人間が善行にせよ悪事にせよ高値をつけてくれる都に押し寄せた」と母親宛の手紙に記 している。  こういう過密な市街地に地震や火事が発生すればどうなるか、誰もが危惧していただろう。紀元62年に発 生した地震はイタリア南部のカンパニア地方だった。現地を視察した皇帝はポンペイを居住地として放棄するように勧告しているが、幸いにポンペイはローマほど過密ではなかったので、自力で再建の道を歩んでいた。

 

 このときの皇帝がネロで、アウグストゥスからかぞえて5代目にあたる。  ところがその2年後に、ローマで大規模な火災が発生した。火災は9日間続き、市域の大部分を焼き尽くしたという。当時の共同住宅(インスラ)は4階以上は木造で、床や屋根も木造だったこと、インスラ同士の間隔が狭く、なかには壁を共有している建物もあって延焼しやすかったのだ。  火災後、ネロはすぐに陣頭指揮で住民の救助と復興にとりかかった。木造やアドベ造の禁止、17メートル以上の高層住宅禁止など、建築制限を設けて市街地の改造を行う。そして、市域の1/3にもおよぶ範囲を独 占して黄金宮殿と呼ばれる皇居を建設した。この宮殿はネロの失脚後に地上部が取り壊され、地下に埋めら れて観光で見ることはできないが、コンクリート材料を用いた新しい建設技術と特異な構造形式で建てられ たという。

 この頃、ローマ都市では切石積み建築よりも作業が速くて楽な、セメントを大量に用いる単純な技術が採用されるようになっていた。コンクリートの起源は砂、石灰、小石を水で混ぜ合わせただけの単純なものだったが、その後、石灰の代わりにポゾラン(火山灰)やすりつぶしたレンガを使うようになった。板材の型 枠に流し込んで固めるコンクリートは扱いやすく耐水性もあるので、ローマ人はそれまで不可能だった規模のせり持ちやドームを備えた大建築物を安価に建設できるようになった。型枠を取り外して石、大理石、モザイク、しっくい、レンガを貼り付ければ仕上がりも美しくなる。黄金宮殿の各室のコンクリート壁面は多 くの絵画で豊かに装飾されていた。16世紀に発見されたとき、洞窟と化していた廃墟の中にあったので、 「洞窟風」(グロテスク)と呼ばれ、ラファエロがヴァチカン回廊のフレスコ画の手本としたものだ。

 

 グロテスクの意味が転じて、「奇怪なもの」「過剰装飾」になったのは、安直なコンクリート材料の壁面とネロが愛したヘレニズム芸術への偏見からきているのだろうか。  古代ローマはその長い歴史において著名な人物を多く輩出したが、皇帝ネロほど悪評を浴びた人物はいな い。ネロは弱冠16歳で皇帝になり、30歳の時反乱に遭って自決を強いられた。その悪評は母親殺しや二人の妻殺しのゆえではない。古今東西を問わず、乱世の支配者は皆同じようにして権力をつかんだ。ネロが悪人だとされるのは、ローマ大火の罪をキリスト教徒にかぶせ、ローマ皇帝としてはじめて公式に迫害・弾圧したからだという。使徒ペテロもこのとき磔刑に遭ったと言われている。どうやら中世のキリスト教支配時代にネロの悪い評価が定着したらしい。歴史的評価というものは時と場合により大きく変わるものだ。しかし起源64年 のローマ大火はキリスト教徒にとって、まさに大震災、黙示録の世界だったに違いない。

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2019年1月 3日 (木)

イスラエルの各種の祭り

■新月「ローシュ・ホデッシュ」

 

 昔は、ユダヤ人は月の満ち欠けで月の日にちを数えていた。つまり、太陰暦に従って暮らしていたわけである。古代においては新月を実際、肉眼で観測して、その日を新しい月の1日と定めた。(ユダヤ人の1日は、日没から始まる。)

 モーセの律法は新月を祭日とは規定していないが、祭日と並ぶ特別な日として、その日に犠牲を捧げるとき角笛(ショファール)を吹き鳴らせと命じている(民数記10:10)。

 また、預言者の言葉を読むと、古代の人が新月を安息日と同様に重んじていたことがわかる。例えば、イザヤ書の1:13-14など。アモス書の8:5を見ると、安息日と同じように仕事を休んでいたことが推測できる。

 神殿が無くなってからも、新月には特別の祈りをする習慣が残っていた。現在では、熱心な宗教家以外は特別の日だという意識はないようだ。こ

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■独立記念日(ヨム・ハアツマウート)

 イスラエルは、1948年5月14日に独立を宣言した。ユダヤ暦では、この日は5708年イヤルの月5日であった。そしてこの日を独立記念日(ヨム・ハアツマウート)として、毎年祝うことをイスラエル議会(クネセット)は定めた。

 ユダヤ教において、この独立記念日は、他の祝祭日と同様の宗教的祭日であると裁定されている。

 確かに、アメリカの独立記念日(7月4日)やフランスの革命記念日(7月14日)のように、世俗的な内容を含む。独立はシオニズム運動の成果であり、一見宗教に関係ないようである。また、やたらに祝祭日を人工的に増やしていくのも好ましくない。

 ところが、イスラエルのユダヤ教ラビ庁は、独立記念日をシナゴーグでも家庭でも伝統的敬虔さで祝うべき祝祭日と定めた。神への感謝と祈りを捧げる日である。理由は、2000年の流浪の運命を閉じて、ユダヤ人が父祖の地に独立国を再建したこの特別の日を宗教的にも祝うのは当然とことだと判断した。

 イスラエルの各指導層も、圧倒的多数で賛意を表しました。

■戦没者記念日

 独立記念日の前日に、戦没者記念日(ヨム・ジカロン)を守る。ジカロンというのは、「記憶」という意味である。この日は、イスラエルの独立の戦いのために戦没した兵士を追悼し顕彰するために捧げられる。戦死者の墓地や当時の戦場を訪ねる人々が少なくない。この日には楽しい催し物は一切しない。娯楽施設などは閉じることになっている。

 そして、夕べが来て日が沈むと、哀悼のムードは変わって、独立記念日に入り、喜びの祝賀に満ちた空気に覆われる。

 イスラエル議会(クネセット)が、「ホロコーストとゲットー決起の記憶の日」としてニサンの月27日を記念日に定めた。ヨム・ハショア(ショアの日)という。

 この日は、あのナチスの虐殺を忘れないと同時に、ワルシャワのゲットーでドイツ軍に武力蜂起した事実を記憶するためである。当時そこのユダヤ人は強制収容所に送られていったが、1943年4月19日、まだ残っていたゲットーの住民は抵抗に立ち上がり、圧倒的に優勢なドイツ軍に対し勇敢に戦ってのち、完全に抹殺された。



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 ショアの日は、この蜂起の日と独立記念日の間にある。イスラエル以外の地では、ユダヤ暦によらず、4月19日をワルシャワ・ゲットー蜂起の日として記念していいる。

 イスラエルでは、すべての娯楽施設、銀行、学校などは閉館となる。

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2019年1月 2日 (水)

■神殿崩壊日「ティシャ・ベアヴ」

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 夏の季節に、イスラエルや世界中のユダヤ人が断食をする小さな聖日がやって来る。これもユダヤ民族の歴史に関連した祭りである。祭りというより、服喪の日と言ったほうが適切である。彼らの民族性をよく表している祭日である。

 ヘブライ語で、ティシャとは9、ベアヴとはアヴの月という意味である。ユダヤ暦のアヴは、大体西暦の7月末から8月頃に来る。

 伝承によれば、紀元前586年のこの日にバビロニア人によってエルサレムの神殿が破壊され、その後建てられた第二神殿も紀元70年のこの日にローマ人によって破壊された(上の絵)。これは民族最大の悲劇の日と見なされて、ずっと記憶されてきた。いわば、ユダヤ民族の敗戦記念日である。

 もちろん、旧約聖書には最初の神殿が失われ国が滅んだ出来事は書かれているが、この記念日を守れとの定めはない。

 この日は、贖罪日(ヨム・キプール)についで重要な断食の日である。信仰熱心な人は、この日ばかりか、この月の最初の9日間、肉食を控え、服喪のしきたりを守り、あるいは髭や剃ったり髪を切ったりしせず、悲しみを表す。

 エルサレムでは、嘆きの壁に何千という人がやってきて、祈りを捧げる。嘆きの壁(西の壁)は、ソロモンの神殿の唯一の遺構だから、この日にまさしく嘆きを表現するにふさわしいところである。(下の写真)革製品の着用も避け、裸足やスニーカーでやって来る人たちを多く見かけるのもこの日である。

 また、前夜からシナゴーグに集まって、まるで葬式に参列するような雰囲気やしきたりで礼拝式を執り行なう。

Myrtos






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七週の祭り「シャブオット」

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 初夏の七週の祭りはユダヤ人の3大祭り(聖書では男子は神殿に巡礼する義務があった)の1つである。ヘブライ語でシャブオットという。西暦の5月か6月頃にやってくる。

 出エジプト記の23章16節には、「あなたが畑に蒔いて得た産物の初物を刈り入れる、刈り入れの祭り」とある。この祭りは、また出エジプト記の34章22節にも出てきて、ここに「七週の祭り」と呼んでいる。そこには「小麦刈りの初穂の祭りを行なわなければならない」と定めている。

 また、口伝律法のミシュナーを見てみると、このお祭りは村人たちがまず各地の大きな町に集まり、最初の収穫を神殿に運んだという記事がある。そして神殿ではレビ人たちが歌をうたって出迎えた。

 このお祭りは、シバンの月6日に祝われる。七週というのは、ペサハの2日目から数えて7週と1日目(つまり50日目)がこの日に当たるからである。ギリシア語で、ペンテコステ(50日の意)というのはその意味である。ただし、聖書にはっきりと日付けが決められているわけではない。それで、賢者のヒレルとサドカイ派の人たちとの間で議論があったことが伝えられている。

 小麦の収穫期が始まる頃だから、新しい小麦の穂で作った小麦粉が祭司に捧げ物として捧げられた。旧約聖書の民数記28章26節に「初物(ビクリーム)の日」とあるところから、ハグ・ビクリームという名称が生まれた。

 また、小麦の初収穫を刈り入れるところから、「刈り入れ(ハカツィール)の祭り」とも言われるわけである。これでもわかるように、シャブオットは農業祭の一面をもっている。

 この日には、シナゴーグではルツ記が読まれる。

 旧約聖書のルツ記は、ルツという異国の女性がイスラエル人の姑のナオミにどこまでも付き従って、イスラエルに行き、ついにボアズという地主の嫁になるという美しい物語である。シャブオットにふさわしい内容である。まず、ルツとボアズが出会ったのは、麦畑でルツが落ち穂拾いをしていた時だが、ユダヤ教では、それはシャブオットの季節だったとされている。ルツは、のちのダビデ王の曾祖母である。

 聖書によれば、ルツはイスラエル人でないが、イスラエルの神を信じた。そこでユダヤ教は、ルツはトーラーに忠信であったと見て、彼女の生涯をたどって読むのはこの聖日にふさわしい、と考えた。

 ここで注目したいのは、ダビデといえば、ユダヤ人の中でも最も偉大な人物であり、最も敬愛される王様である。その家系に異邦の女、ルツがいたことをわざわざ記して、聖書にまで載せている。ダビデの子孫から救い主イエス・キリストが誕生されたことは神の偉大な摂理でる。

Myrtos

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